吉 田 城

背後に豊川を配する三河支配の拠点

 所在地:愛知県豊橋市今橋町
 別  称:今橋城
 築城年:永正2年(1505)、天正18年(1590)
 築城者:牧野古白(こはく)、池田輝政
 形  式:平城
 遺  構:石垣、堀跡、土塁、復興櫓 

 地図 
復興入道櫓
歴 史  吉田城は当初今橋城と呼ばれ、今川氏に従ってい北御多門跡に至る石段たこの地の豪族牧野古白が豊川の入道ヶ淵を埋め立てて永正2年(1505)に築城した。
 その後、今橋城は今川氏の勢力下にあった近隣の豪族たちの抗争の舞台となったが、天文15年(1546)今川義元が争奪戦に終止符を打ち、義元は三河支配の拠点として城代を置き、城の名も吉田城と改めた。
 永禄3年(1560)今川義元が桶狭間の戦いで戦死すると、徳川家康の勢力は東に伸び、永禄7年(1564)には東三河から今川勢力を一掃。家康は腹心の酒井忠次を吉田城主としたが、元亀2年(1571)甲斐の武田信玄は京に上る通過点として吉田城を攻撃、また天正3内堀跡年(1575)には武田勝頼が吉田城を攻めたが、いずれも酒井忠次が防戦し事なきを得た。
 天正18年(1590)豊臣秀吉の小田原征伐の後、徳川家康が関八州に移封されると、秀吉は駿府城に中村一氏、掛川城に山内一豊、浜松城に堀尾吉晴など配下の武将を配し、吉田城には池田輝政を15万2千石で入封させ、家康を牽制する布陣を敷いた。武具所跡から眺める豊川
 池田輝政は豊川を背にして城の拡張、修築を行なったが、慶長5年(1600)関ケ原の合戦の軍功により、輝政は播磨一国52万石を与えられて姫路城主となる。このため、築城工事は未完のままであった。
 江戸時代になると、吉田城主には松平氏、水野氏、小笠原氏、久世氏、牧野氏など譜代大名がめまぐるしく交替するが、いずれも6万石程度の小禄であったため、池田輝政が縄張りした大城郭を築き上げることは出来なかった。
 寛永2年(1749)松平(大河内)信復(のぶなお)が7万石で入封。以後、吉田城は松平氏7代で明治維新を迎える。
一口話  江戸時代、吉田の宿は東海道を往来する人々で賑わった城下町である。豊川に沿って長い二段の石垣があり、一箇所だけ石段が水面の下まで続いている。川船によって運ばれた米や物産を揚げ降ろししたところで、その傍らに水門の遺構が残っている。その枡形は堂々とした構えで、城下町やこの水運も池田輝政が築いたものである。
見どころ  北御多門跡吉田城は豊川に臨む平城で、反円形に本丸・二の丸・三の丸をめぐらす円郭式縄張りであった。本丸はすべて石垣造りで、三層・二層櫓を並べ、西の丸も合わせると12万4千平方mもの規模を誇っていたという。
 現在、吉田城跡は豊橋公園となり、市民の憩いの場所となっている。本丸跡の一角に三層の入道櫓が昭和29年に再建され、櫓脇の武具所跡から眺める豊川の流れが美しい。
 本丸跡には南御多門跡・裏御川手櫓跡門跡・北御多門跡の3ヶ所の入口があるが、なかでも北御多門跡は見事な虎口を構成し、石段を降りてゆくと豊川のほとりに出る。
 本丸跡を取り囲むように内堀跡が残り、その一端が豊川に通じている。豊川に面して川手櫓跡があり、往時の縄張りが偲ばれる。
 吉田城跡は桜のシーズンをはずすと静かな佇まいをみせ、今に残る内堀跡・石垣・土塁・本丸跡は池田輝政時代の遺構をよくとどめ、古城の趣きが感じられる。
周辺案内  豊橋市内には日本で二番目に古い木造瓦葺の「前芝の灯明台」が修復復元されて残っている。前芝湊は年貢米や物産を運ぶ廻船が発着するなど、江戸時代の水上交通の要地であった。
 近くには日本三大稲荷の一つである豊川稲荷がある。稲荷といえば朱塗りの門と本殿が主体だが、この豊川稲荷は曹洞宗の寺院で千手観音菩薩を本尊としている、一風変わったお稲荷さんである。3万坪を越える広い境内には総欅造りの本殿や豊川閣寺宝館などがあり、商売繁盛を願って年間600万人を越える参拝客が訪れる。

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