山 中 城
小田原防衛の西の要の山城
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| 畝堀 |
| 歴 史 | 山中城は箱根外輪山の西側斜面、標高580mに築かれた山城で、永禄年間後半に第三代北条氏康が小田原城の西の固めとして築城したもの。 当初は北条氏康の番城で城番が置かれていたが、豊臣秀吉の小田原城攻撃を予想し、天正17年(1589)北条氏政が北条氏の最前線拠点として大修築を行なった。 その後北条氏勝が城主となったが、天正18年(1590)3月徳川家康を主将とする豊臣方の大軍に攻撃された際、城主である北条氏勝は事前に脱出して玉縄城(鎌倉)に戻っており、山中城には城代の松田康長以下4千の兵が籠もるだけだった。7万の大軍で押し寄せる豊臣勢になすすべもなく、三の丸・二の丸はいとも簡単に占拠され、松田康長はわずか2百の兵で本丸に籠もって壮絶な討ち死を遂げ、半日で山中城は落城した。 |
| 一口話 | 北条早雲は戦国時代の先駆けとなった名将で、民政にも気を配ったが、その北条氏も世代が下がるにつれてどうも軟弱になったようで、その典型が北条氏勝である。 豊臣勢の攻撃を前に、山中城の城主である北条氏勝が事前に脱出しては、後に残る松田康長が率いる兵の戦意も喪失したことだろう。北条氏勝は山中城がわずか半日で落城したことを恥じて、城(玉縄)を枕に討ち死にすると言い張って、北条氏康の小田原参陣要請を拒みつづけたが、徳川家康の降伏勧告を受けると、北条氏勝はすぐに降伏したといわれている。 |
| 見どころ | 山中城は三島駅から北東11kmの山中にあり、山脈を利用した堅牢かつ大規模な山城である。大手を箱根へ向かう街道に向け、三本の尾根を利用して本丸や二の丸・三の丸、3つの出丸を配し、多くの深い空堀と土塁を施したもので、石を使わず土だけで築いた城として全国でも珍しいものである。 現在、その遺構がほとんど残っているため国の史跡に指定され、畝堀と障子堀を復元している。畝堀は山中城の特徴である深い堀に設けた仕切りの土手。障子堀は堀の底に障子の桟のように土塁を設けたもので、堀底に入り込んだ敵の移動を阻止する仕掛けである。 この山中城の特徴ともいうべき畝堀や障子堀のほか、橋・門・土塁・柵などを見て周れば、戦国時代の城郭の姿が浮かび上がってくる。 |
| 周辺案内 | 山中城跡に行く前にまず三嶋大社と宋閑寺に詣でたい。三嶋大社は大山祇命・事代主命の二柱を祀る旧官幣大社で、古代から全国の人々の信仰を受けた神社として有名である。春の桜の頃が特に美しい。 宋閑寺は豊臣秀吉・徳川家康連合軍による山中城攻めで戦死した者たちの霊を弔うために建立された寺院である。 山中城跡を見学した後、その周辺に残る箱根旧街道の石畳の道を歩けば江戸時代の気分が味わえる。 |