野 田 城
武田信玄との戦いで有名な菅沼氏の居城
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| 城址碑 |
| 歴 史 | 野田城は「山家三人衆」と呼ばれた菅沼氏の一族である菅沼定則が永正2年(1505)に築城。当時、駿河から東三河一円まで勢力を伸ばしていた今川義元に属した。 永禄3年(1560)上洛を目指した今川義元が桶狭間の合戦で織田信長に討ち取られると、時の野田城主菅沼定盈(さだみつ・定則の孫)は徳川家康の支配下に入った。 元亀3年(1572)上洛の途についた武田信玄は三方ヶ原の戦いで家康を敗走させ、翌天正元年(1573)信玄は2万の大軍を率いて城兵数百名が籠もる野田城を取り囲んだ。野田城は城の縄張りの巧妙さで良く持ちこたえたために籠城戦となった。信玄は甲斐の国から金山堀り人足を動員して城外から掘り進め、ついに城内の井戸に穴を開けて水を抜くという断水戦術を敢行。堅城といわれた野田城も攻防1ヶ月の末に落城することになる。 武田信玄は武士の情で、城兵に一人一日椀三杯の水を贈ったという美談も語られているが、上杉謙信が武田信玄に塩を贈ったという故事に似た話で、真偽の程は分からない。 |
| 一口話 | 籠城中の野田城では、伊勢山田の村松芳休という笛の名手が毎夜笛を吹き、敵も味方もその笛の音に聞き惚れていた。 この笛の音に惹かれた武田信玄が軍を離れて城に近づいた時、城兵の鳥居三左衛門に鉄砲で撃たれ、その傷がもとで亡くなったという伝説はあまりにも有名。史実の程は分からないが、上洛の夢が破れて、甲斐へ引き揚げる途中、信州駒場で亡くなったのは確かで、武田軍は信玄の死を長らく伏せていたという。 |
| 見どころ | 野田城は小城ながらも戦国時代の一豪族の城としては巧みに構築された縄張りで、主郭・二の曲輪・三の曲輪は高低差がなく、横一直線に並んでいた。そのため、城兵の移動が容易で、少数の兵ながら武田の大軍を相手に良く持ちこたえたといえる。 野田城跡には何一つ建造物はないが、主郭跡と二の曲輪跡の形態は比較的良く残り、二の曲輪跡からは散策道がある。主郭跡と二の曲輪跡との間には空堀と土橋が残っていて、土橋を渡ったところに「野田城址」の碑が建つ。この碑の少し奥に武田信玄が水抜きを行ったという井戸がある。 現在、三の曲輪跡の北には国道、南にはJR飯田線が走っていて、周囲の様子は様変わりしたものの、主郭跡や二の曲輪跡の空堀や井戸などが中世城郭の面影をとどめている。 |
| 周辺案内 | 新城市一帯は有名な「長篠・設楽原の決戦」が行われた古戦場。設楽原歴史資料館には、織田・徳川連合軍が武田騎馬軍団を新兵器の鉄砲で討ち破った経緯と鉄砲の果たした役割などの歴史資料が展示されている。 望月家住宅は豊川流域と天竜川流域に分布する全国でも珍しい分棟型民家。18世紀末頃の建物で、この地方では「釜屋」と呼ばれ、国の重要文化財に指定されているので、是非訪ねたいところ。 |