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苗 木 城

木曽川に臨む断崖上に築かれた遠山氏の居城

 所在地:岐阜県中津川市苗木
 別  称:赤壁城、霞城
 築城年:天文元年(1532)
 築城者:遠山直廉(なおかど)
 形  式:山城
 遺  構:石垣、天守台、土塁、空堀
      井戸、曲輪

 地図 
大矢倉跡の石垣
歴 史  苗木城の築城年代には諸説があるが、天文元年天守台(1532)美濃岩村城主遠山景前の弟である遠山直廉が築城したと伝えられている。
 遠山直廉は織田信長の妹を娶って女子をもうけたが、この女子は土塁と空堀信長の養女として武田勝頼に嫁ぐことになる。こうした姻戚関係から、苗木遠山氏も岩村城をめぐる織田信長と武田信玄の攻防戦に巻き込まれる。
 遠山直廉の死後、遠山友勝、続いて遠山友忠が織田信長の命により苗木城主となる。しかし、天正10年(1582)本能寺の変で信長が倒れると、時の苗木城主遠山友忠は徳川家康に仕えた。
 天正11年(1583)苗木城は駆門跡羽柴秀吉(後の豊臣秀吉)方の美濃金山城主森長可に攻められて落城。遠山友忠は家康を頼って浜松に落ち延びる。
 慶長4年(1599)森長可の跡を継いだ森忠政が信州川中島に移封され、替わって川尻直次が苗木城主となるが、慶長苗木遠山史料館に移築された風吹門の門扉5年(1600)関ヶ原の合戦で川尻直次は石田三成方の西軍に属して戦死。同年、家康によって遠山友忠の子友政が1万5百石を与えられ、先祖伝来の苗木城主に返り咲いた。
 通常、1万石クラスの大名は陣屋しか持たされなかったが、遠山氏は特別に城持を許され、以後、苗木城は遠山氏12代の居城として明治維新を迎える。
一口話  木曽川には白い色が嫌いだった一匹の蟠竜が住んでいて、城を守護していたという伝説がある。遠山友政が戦国風の苗木城を改修しようとして赤土の城壁を白壁に塗り替えたところ、蟠竜が怒って木曽川を氾濫させ、一夜で白壁を泥まみれにしてしまった。
 幾度塗りなおしてもすぐに泥をかぶってしまった。このため、城壁を赤く塗ったところ、ようやく蟠竜の怒りが静まったという。以来、苗木城は赤土のままで赤壁城とも呼ばれることになった。
見どころ  苗木城は標高433mの高森山に築かれた山城で、二の丸跡山全体は巨岩に覆われ、南麓に流れる木曽川を天然の堀としていた。中山道と飛騨街道を押さえる要衝の地にあたり、木曽川に突出した岩山を巧みに利用した要害堅固な城であった。
 本丸跡下の絶壁現在、苗木城跡には建造物は何一つ残っていないが、城跡の規模は1万石に過ぎたるもので、巨岩と石垣との壮大な組み合わせなどが往時のまま残り、国の史跡に指定されている。
 山麓にある苗木遠山史料館で予備知識を得てからじっくりと見学したい。史料館裏手の緩やかな登城道を少し行くと、枡形の石垣が残る風呂屋門跡で、門跡を固めるように足軽長屋跡、隣接して遠山氏の祈祷所であった龍王院跡がある。
 風呂屋門跡から竹門跡を経て登城道を行くと三の丸跡に至るが、途中から三の丸跡直下に通じる土塁と空堀が良く残り、風吹門跡土塁の上を歩くのも一興。
 三の丸跡への入口が風吹門跡。二階が「飼葉蔵」として使われていた風吹門は大手門とも呼ばれ、門番所が併置された重要な門であった。門には潜り戸が付き、城主在城時以外は閉大矢倉跡の石垣ざされていたという。なお、苗木遠山史料館内に往時の門扉が移築されている。
 三の丸跡で目を惹くのが大矢倉跡の石垣。天然の巨石と見事に融合された切り込みはぎの石垣が見る者を圧倒する。
 大矢倉跡北側に北門跡がある。北門は城の外郭にあった土塀付きの門で、東側に下ると木曽川、北側の道は家臣の屋敷跡に通じている。北門跡脇にある小池は雨水が頼りの貯水池で、馬の飲み水に利用されていた。
 三の丸跡東側の駆門(かかりもん)千石井戸跡には虎口の石垣が残り、眼下の谷とあいまって風情のある佇まい。駆門は木曽川畔の大手門から三の丸への通用口にあたり、今でも門跡から山麓東側の大手門跡へは「四十八曲り道」と呼ばれる急峻な登城道が続いている。
 三の丸跡から本丸跡へは大門跡から坂下門跡などを経て直進本丸跡の石垣と天守台するコースと、二の丸跡から不明門跡などを経て、本丸跡を取り囲む帯郭跡伝いに迂回しながら登るコースがある。
 大門跡は三の丸と二の丸を仕切っていた城内で一番大きな二階建ての門が建てられていたところで、本丸跡までは屈折した坂道が続く。
 大門跡を過ぎてすぐ左手にあるのが御朱印蔵跡。「切石」で整然と積まれた石垣の上に建てられていた御朱印蔵には、将軍家から与えられた朱印状など不明門跡重要な文書や刀剣類が納められていた。
 大門跡から登って行くと綿蔵門跡がある。本丸へ上る道をさえぎる形で建っていた門で、七ツ時(午後4時)以降は扉が閉められ、本丸には進めなかった。年貢として納められた真綿が門の二階に保管されていたことからこの名がある。
 馬洗岩綿蔵門跡から登ると坂下門跡で礎石が残る。さらに登ると菱櫓門跡があり、ここを登りきると巨石を利用した本丸跡の石垣と天守台が見えてくる。
 本丸跡への登城道には本丸口門跡があり、その手前に千石井戸が残っている。あまり深くはないが、どんな日照りの時でも水が枯れたことがなく、千人の用を達したという。
 大門跡の西側が城主の居館や笠置矢倉跡勘定所などがあった二の丸跡で、礎石が一面に広がっている。二の丸跡の一角に長方形をした的場跡があり、高さ1mほどの的の土塁が残る。
 二の丸跡から帯郭跡を登って行くと不明門跡がある。二階建ての門が建てられていたが、普段は締め切られ、忍びの門であったといわれている。
 大門跡さらに登ると清水口門跡。門跡の北側にある巨岩の下から清水が湧き出て、用水として使われていた。
 清水口門跡を過ぎると物見矢倉跡がある。木曽川に面した崖の上に建てられたことから「木曽物見」ともいわれ、樹木越しに木曽川が望める。
 物見矢倉跡から登って行くと仕切門跡。二の丸と本丸を仕切っていた門跡で、仕切門跡から的場跡を経て本丸口門跡まで登城道が続く。本丸跡への石段
 本丸口門跡を過ぎると笠置矢倉跡がある。本丸西側の巨岩の上に建てられていた矢倉跡で、笠置山が正面に見えることからこの名がつく。
 天守台南下の馬洗岩と呼ばれる大岩が目を惹く。周囲約45mの花崗岩で、苗木城が敵に攻められて水の手を切られた時本丸跡、この岩の上に馬を乗せて、米で馬を洗い、水が豊富なように敵を欺いたということからこの名がある。
 馬洗岩の脇は切通しになっており、ここを抜けると本丸跡へ上る急な石段があるが、石段前から眺める本丸跡下の絶壁は壮観。
 本丸跡の一角には2つの巨岩からなる天守台が残っているが、このような天守台も珍しい。往時には三層の天守が築かれていたが、今では巨岩の本丸跡から眺める木曽川上に柱と梁組みで天守三階部分の床面が部分的に復元され、展望所となっている。
 山頂の本丸跡からの眺望は素晴らしく、眼下に流れる木曽川からの比高差は約170m。中津川市街と木曽川、さらに恵那山や木曽山系の山並みが一望でき、標高の高さとともに、苗木城がいかに要衝の地に築かれていた山城であったかが実感できる。
 苗木城に危機が迫ると木曽川から霧が一面に立ち上り、城を隠してしまうという伝説があることから「霞城」とも呼ばれている。
周辺案内  苗木遠山史料館苗木城跡山麓にある苗木遠山史料館には中世・戦国時代から明治時代初期にかけての苗木遠山氏と苗木城に関する歴史資料が数多く展示されている。在りし日の苗木城の絵図や武田信玄の書状、初代藩主遠山友政の画像、皇女和宮ゆかりの琴などが興味深い。
 中津川市から見上げる恵那山は日本百名山の一つで、秀麗そのもの。中央アルプス最南端の主峰で、馬籠宿標高2191mのこの山は島崎藤村の『夜明け前』など、多くの文学作品に描かれている。
 中津川からほど近い馬籠宿を訪れるのも良いだろう。馬籠宿は江戸と京都を結ぶ中山道の宿場町で、急な山の尾根に沿っているため、「坂のある宿場町」として全国的に有名。馬籠は島崎藤村の生誕地で、昭和25年に藤村記念館が建てられた。馬籠宿には馬籠脇本陣資料館や清水屋資料館など歴史を感じさせる町家が軒を連ねている。

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