清 洲 城
桶狭間の戦いで信長が天下統一の第一歩を踏み出した城
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| 模擬天守 |
| 歴 史 | かつて尾張の中心は清洲で、東海道と伊勢街道とが分岐し、中山道にも通じる交通の 要所であった。室町時代初期の応永12年(1405)頃、尾張・遠江・越前の守護大名であった斯波義重が清洲城を築城。斯波氏は足利幕府を支える三管領(細川氏、斯波氏、畠山氏)の家柄で、足利将軍家に次ぐ権力を誇り、斯波義重は織田敏定を守護代として清洲城主とし、尾張を統治させていた。その後、畠山氏と同様に斯波氏にも家督相続をめぐって内乱が起こり、応仁の乱に始まる下克上の時代となる。この機に乗じて守護代織田敏定の家臣の末裔であった織田信秀(織田信長の父)が清洲城主にのし上がった。 織田信長は天文3年(1534)那古野城で生まれたが、弘治元年(1555)清洲城主となり、永禄3年(1560)今川義元を桶狭間の戦いで破って、戦国武将としての第一歩を踏み出した。 永禄10年(1567)信長が美濃の斉藤龍興を攻略して本拠を岐阜城に移すと、信長の嫡男信忠が清洲城主となる。しかし、天正10年(1582)本能寺の変で信長の自刃とともに、信忠も戦死。同年、清洲城で信長の後継者を決める有名な 「清洲会議」が開かれ、信長の次男織田信雄(のぶかつ)が清洲城主となった。信雄は清洲城の大修築に着手、天守の鯱(しゃちほこ)や屋根の一部に金箔瓦を用いるなど絢爛豪華な城郭を築き上げた。 豊臣秀吉が天下を掌握すると、豊臣秀次、福島正則、松平忠吉(徳川家康の四男)が城主となるが、徳川家康の世となって慶長12年(1607)家康の九男義直が清洲城に入城する。 慶長15年(1610)家康は手狭な清洲城を廃し、名古屋への遷都を義直に命じた。名古屋城は天下普請で慶長19年(1614)に完成し、翌元和元年(1615)義直が名古屋城主となると、清洲城は廃城となった。 名古屋城築城に際しては清洲城の材料も積極的に利用され、約6万人が住んでいたといわれる清洲城下も姿を消した。「思いがけない名古屋ができて、花の清洲は野となろう」という唄が流行ったように、世にこれを「清洲越し」と呼んでいる。 |
| 一口話 | 永禄3年(1560)今川義元は念願の上洛を果たそうと大軍を率いて尾張に向かった。その道筋にあたる清洲城の命運はまさに風前の灯火だった。城内では出撃論と籠城論に分かれたが結論は出ず、信長は家臣に退席を命じた。 その夜半過ぎ、信長は突如起き上がって素早く鎧具足を身に付け「人間50年、下天の内をくらぶれば、夢幻の如くなり・・・」と謡曲『敦盛』の一節を詠い終わると、決然と出撃を命じた。この奇襲作戦により見事桶狭間の戦いで義元の首級をあげ、一躍天下に信長の名をとどろかせた。 |
| 見どころ | 在りし日の清洲城は、内・中・外に三重の堀をめぐらした大城郭であったが、 現在では城域のほとんどが市街地と化してしまった。ただ、本丸跡が清洲公園として整備され、園内には清洲古城の碑と、桶狭間の方を向いた若き日の信長の銅像が建っている。信長を祀った小さな祠が建つところがかつての天守台跡である。清洲公園から五条川を渡ったところに平成元年、三層四階の天守が築かれた。往時は このような天守だろうと想像して建てられた模擬天守だが、その内部は郷土資料館になっていて、清洲城の歴史や桶狭間の合戦の様子などをビデオなどで楽しく学べる。天守最上階からは濃尾平野が一望でき、かつて清洲の地が尾張の中心であったことが実感できる。 「清洲越え」で城下町もろとも名古屋に移転してしまったため遺構は残らず、清洲公園内に建つ信長の銅像を仰ぎ見ながら戦国時代の盛衰を想像するしかない。 なお、名古屋城に現存する西北隅櫓は清洲城天守の材料で造られたために「清洲櫓」とも呼ばれ、今も堀に美しい姿を映している。 |
| 周辺案内 | 総見院は織田信長ゆかりの寺で、建物は新しいが織田信長が着用した「焼け兜」などの文化財が残っている。 また、日吉神社は清洲城下町の氏神で、豊臣氏、徳川氏の崇敬が厚く埋蔵金伝説も伝わっている。 清洲から少し離れた神明町には、旧美濃街道沿いに本陣跡、脇本陣をつとめた櫛田家の屋敷が残り、宿場町として栄えた江戸時代の名残をとどめている。 |