国宝 犬 山 城
木曽川に臨む古式な天守を持つ城
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| 現存天守(国宝) |
| 歴 史 | 犬山城は天文6年(1537)織田信長の叔父である織田信康が築城したが、 天文16年(1547)織田信康は美濃の斎藤道三との戦いで討死。後を継いだ織田信清(信長の従兄弟)は天下統一を目指す信長の意に背いたため、永禄7年(1564)信長軍に攻められ、武田氏を頼って甲州に逃れたという。信長は柘植与一に犬山城を与えたが、元亀元年(1570)改めて池田信輝を犬山城主とした。天正10年(1582)本能寺の変で信長が倒れると、犬山の城取り抗争が始まり、信長の次男織田信雄(のぶかつ)や豊臣秀次の持城となったこともある。文禄4年(1595)豊臣秀次が高野山で自害した後、石川光吉が犬山城主となった。 石川光吉は慶長5年(1600)関ケ原の合戦に際して、石田三成の西軍に味方して敗走、犬山城は徳川家康の統治する城となった。 慶長6年(1601)家康の四男松平忠吉が尾張清洲城主となると、領内北部を固めるため付家老の小笠原吉次を犬山城主とした。石川光吉と小笠原吉次によって犬山城は近世城郭となり、城下町も整備された。 ![]() 慶長12年(1607)尾張徳川家初代の徳川義直(家康の九男)が清洲城主となると、その付家老の平岩親吉が犬山城主となる。平岩親吉には嗣子がなかったため、親吉の後を次いで尾張藩付家老となった成瀬正成が元和4年(1618)3万5千石で入城。以後、犬山城は成瀬氏9代の居城として明治維新を迎えた。 明治4年、九代藩主成瀬正肥(まさみつ)の時、廃藩置県により天守を除く建物はほとんど取り壊され、天守は県が管理したが、明治24年の濃尾地震で損壊。 明治28年、旧犬山城主成瀬正肥が修復するという条件で城を譲り受け、その後、犬山城は成瀬氏の所有となり、個人所有の城として有名であったが、平成16年4月、財団法人「犬山城白帝文庫」が設立され、城の所有者は成瀬家から財団法人になった。 |
| 一口話 | 木曽川に臨む唐破風の華やかな天守の眺めを称えて「白帝城」と名付けたのは、元禄時代に犬山城を訪れた儒学者・荻生徂徠である。 白帝城は『三国志』で知られる劉備の城で、長江に面していた。唐の李白の「朝に白帝を辞する彩雲の間・・・」の詩から「白帝城」の別名が生まれという。今もなお、木曽川に臨む天守は白帝城の名に恥じない美しさを見せている。 |
| 見どころ | 犬山城は木曽川に臨む標高40mほどの小丘陵上に築かれている。 木曽川越しに眺める天守の姿は誠に美しい。中御門跡から松の丸門跡、黒門跡、岩坂門跡と続く緩やかな登城道を登ってゆくと、入城口となっている旧門を模した本丸門に至る。 黒門跡からの登城道の左側に犬山城主の子孫である「成瀬家」がある。意外に質素な住まいのように見受けられる。 国宝の天守の姿は小振りながら見飽きることが無い。天守は木造三層四階だが、入口の付け二階に残る石垣は築城当時のものといわれている。 現在の天守は付け二階の上に慶長5年(1600)以降に建てられたものだが、天守を華やかなものにしている屋根の唐破風は桃山様式で、最上階は高欄を配した古風な望楼式である。 一階には城主の居間である上段の間があり、その背後には万一を警護する武士の詰め所の武者隠が設けられている。納戸の間など四室を取り巻く一段低い板の間は武 者走りと呼ばれ、城兵が武器を手に自由に走り回れる造り。また、西北隅に石落しの間が復元されている。二階は中央が武具の間で、三方に武具棚があり、日本の名城の写真が飾られている。三階は破風の間。この唐破風は犬山城が築城された天文6年(1537)から70余年後に、成瀬氏が増築したもの。 最上階は高欄の間で、ここからの眺めは実に素晴らしい。眼下に木曽川、晴れた日には北のかなたに木曽の御嶽山、南西には岐阜城のある金華山のかなたに伊吹山、鈴鹿山系も一望できる。 犬山城の建造物は天守しか現存していないが、急勾配の階段などに見られる木造建築は外観とあいまって、さすが国宝と思わせる。 |
| 周辺案内 | 犬山城へは日本ライン下りで到着したい。ドイツのライン下りに似た風景が 左右に展開するため、日本ラインと名付けられている。犬山城の近くには明治村とリトル・ワールドという有名な観光名所がある。 壮大な面積を持つ明治村には、明治時代の各地の名建築が多数復元されており、村内には昔懐かしい蒸気機関車が走っている。時間をかけて見学すれば、古き良き明治時代への郷愁を感じさせる。 リトル・ワールドは野外国際民族博物館で、広い園内をめぐる遊覧バスもあるが、ここはやはり散策して、フランスをはじめ世界各国の館を訪ねたい。各国の民族資料の展示館もあり、なかなか見ごたえがある。また大食堂では、各国の郷土料理が味わえる。 |