郡上八幡城
奥美濃の要地にそびえ立つ山城
![]() |
地図 ![]() |
|
| 模擬天守 |
| 歴 史 | 鎌倉時代の承久2年(1220)郡上山田荘の地頭となった千葉氏の一族・ 東(とうの)胤行が畔千葉城を築いたのが郡上での城の起源といわれる。南北朝時代になると東氏は篠脇城を築き、東氏歴代の居城とした。東氏九代常縁は歌道に秀でた異色の武将で、文明3年(1471)東常縁を慕って郡上を訪れた連歌師・飯尾宗祇に古今伝授をしたほどの文化人であった。東常縁から2代後の常慶は八幡山と向かい合う東殿山に新しく城を築いた。 ところが、永禄2年(1559)東常慶の子・常尭(つねたか)は支族の遠藤胤縁(たねより)を陰謀によって殺害。これに怒った胤縁の弟遠藤盛数は弔い合戦の名目で東殿山城に籠もる東常慶を滅ぼし、ここに12代340余年続 いた名門東氏の歴史は幕を閉じる。同年、遠藤盛数は八幡山に新しい城を築いた。これが今に残る郡上八幡城である。天正16年(1588)遠藤氏二代目の慶隆は、豊臣秀吉に反抗した岐阜城主織田信孝に味方したために追放され、秀吉は稲葉貞通を4万石で八幡城主とした。稲葉貞通は山頂の本丸に天守を築き、 山腹に居館を設けて二の丸とするなど城の大修築を行なった。慶長5年(1600)関ケ原の合戦では、先の城主遠藤慶隆は東軍に味方し戦功をあげたため、徳川家康によって郡上郡2万7千石を与えられ、再び八幡城主に返り咲く。 元禄5年(1692)遠藤氏五代常久が7歳で亡くなったため、所領は没収。替わって常陸笠間より井上正任(まさとう)が5万石で入封。その後、井上氏2代、金森氏2代を経て、宝暦8年(1758)丹後宮津より青山幸道(よしみち)が4万8千石で入封。以後、郡上八幡城は青山氏7代の居城として明治維新を迎える。 |
| 一口話 | 郡上八幡といえば「郡上踊り」が有名である。その起源は徳川三代将軍家光の時代、時の藩主であった遠藤慶隆が士農工商の融和を図るため、盆祭りの夜に踊りを奨励したのが始まりで、国の重要無形民俗文化財に指定されている。 現在では毎年、7月上旬から9月上旬まで30夜にわたり踊られているが、中でも8月13日から14日にかけて徹夜で踊り明かす老若男女の踊りは誠に壮観そのもの。 郡上踊りは阿波踊りと同じく「見物する踊り」ではなく、一緒になって楽しむ踊りである。誰でも気軽に輪の中に入って手足を動かしているうちに、簡単に踊れるようになる。 |
| 見どころ | 郡上八幡城は吉田川と小駄良(こだら)川が合流する北岸の標高354mの八幡山の山頂にある。現在、同程度の歴史を持つ大垣城を模して昭和8年に再建された天守と、隅櫓や城壁が築かれている。平成3年には模擬な がらも城門が建てられ、城としての風格を増した。天守直下の駐車場までは細い道ながら一方通行で車で登れる。まず目につくのが往時の面影をとどめる石垣で、天守と隅櫓、城壁と溶け合った姿は模擬ながら見事な風景。 天守入口近くに「力石」がある。八幡城修理の際、城下の作兵衛が運んできた二つの巨石で、奉行が激賞すると作兵衛は力尽きて息絶えてしまった。このため、奉行はこの巨石の使用を禁じたという。昭和8年に天守が再建された時、作兵衛の心根を顕彰するため、この 地に移されて祀られている。八幡山の山上からは東氏の居城が築かれていた東殿山が眼前に眺められ、往時のすさまじい戦いの程が偲ばれる。 天守は四層五階の木造造りで、再建された木造天守としては日本最古のもの。 天守の内部には青山氏ゆかりの甲冑をはじめ、古文書など多くの遺品が展示され興味深い。最上階からの見晴らしは素晴らしく、眼下に吉田川、小駄良川の清流と、小京都といわれる郡上八幡の町並みや奥美濃の山々が眺められる。天守一帯の石垣は野面積みで、江戸時代の面影を残す貴重なもの。城の縄張りはそれほど複雑なものではなく、規模も小さいが、一度は訪れてみたい山城の一つである。 |
| 周辺案内 | 郡上八幡の町並みはゆっくりと散策したい。江戸時代の面影を今に残し、軒下には清流が流れているのが何よりも心地よい。吉田川の川岸に下りて清流を眺めるのも良いだろう。日本名水百選に選ばれた「宗祇水」は、清らかな水がこんこんと湧き出ている。室町時代の連歌師として有名な飯尾宗祇がこの泉のほとりに庵を結び、この清水を愛用したことから「宗祇水」と名付けられた。 ![]() おもだかや民芸館に展示されている奥美濃の民芸品は見ごたえがある。その隣に建つのが斎藤美術館。建物も往時の名残りをとどめ、おもだかや民芸館との間の小路は風雅な趣きを感じさせる。展示品も貴重なものが多く、水琴窟の音にも耳を傾けたい。 慈恩寺の庭園「てつ草園」も見学したい。幽玄で豪壮な雰囲気を感じさせる室町様式の庭園で、四季折々の趣深く、庭に向かえば心も安らいでくる。 |