米 沢 城
上杉謙信の流れを汲む上杉氏13代の居城
| 歴 史 | 米沢城は鎌倉時代の初期、暦仁元年(1238) 鎌倉幕府草創期の実力者である大江広元の次男時広がこの地の地頭として赴任、長井氏と称して築城したのが始まりという。長井氏は8代150年余にわたってこの地を支配するが、戦国時代に入ると伊達氏の所領となり、伊達氏十五代晴宗は天文17年(1548)米沢城を本城と定め、その20年後の永禄10年(1567)米沢城で戦国の雄伊達政宗が産声を上げた。 天正18年(1590)豊臣秀吉の小田原北条攻めの際、伊達政宗は参陣が遅れたため陸奥国岩出山城に移され、米沢城は会津を領した蒲生氏郷の持城となった。 次いで慶長3年(1598)豊臣秀吉は奥羽鎮護のため、上杉謙 信の後を継いだ景勝を越後の春日山城から会津若松に転封させ、上杉景勝は重臣で知将の聞こえ高い直江山城守兼続(かねつぐ)を30万石もの破格の待遇で米沢城主とした。その2年後の慶長5年(1600)関ケ原合戦前夜、上杉景勝は直江兼続の主導のもと、石田三成方の西軍に加担して徳川家康方の山形城主最上義光を攻撃し、「奥羽の関ケ原の合戦」を展開。 しかし、関ケ原の合戦では西軍が敗れたため、徳川家康によって上杉景勝は会津120万石を没収、米沢30万石に減封・移転され、以後、米沢城は上杉氏13代の居城として明治維新を迎える。 この間、三代藩主上杉綱勝の急逝により15万石に減封され、 藩財政は逼迫。この米沢藩の大改革に取り組んだのが名君といわれる九代藩主上杉治憲(鷹山)である。上杉鷹山(ようざん)は日向高鍋藩秋月家から養子として上杉家を継いだ人だが、自ら一汁一菜の倹約を実行し、農民の援助、農地開拓、水利事業、殖産興業の推進などに努め、見事に藩財政の建て直しに成功した。 明治元年の戊辰戦争の際には、米沢藩は仙台の伊達藩とともに奥羽列藩同盟の雄藩として臨んだが、明治新政府軍の前にほとんど戦うことなく降伏した。 |
| 一口話 | 播州赤穂浪士事件の際、上杉家の当主は吉良上野介義央の息子綱憲であった。大石蔵之助を首領とする赤穂浪士の吉良邸への討ち入りが取りざたされるおりから、上杉家の去就が注目されたが、国家老の千坂兵部、江戸家老色部又四郎は類が米沢藩に及ばぬよう苦心した。赤穂浪士の映画やテレビドラマでは必ず描かれているほど有名な話である。 |
| 見どころ | 米沢城は徳川幕府に対する配慮から天守は築かれず、本丸の東北と西北の高台に御三階櫓二基を設け、御殿が中心であった。現在、米沢城跡は松が岬公園として整備され、本丸跡を取り囲む満々と水を湛えた堀は見事で、土塁とあいまって往時の米沢城を偲ばせる。 本丸跡には上杉謙信を祭神とする上杉神社が建ち、米沢の観光名所として賑わっている。見逃せないのは宝物殿(稽照殿)。上杉謙信、直江兼続、上杉鷹山の遺品を中心に甲冑・刀剣・絵画・仏具・陶磁器・服飾などを展示。 重要文化財や重要美術品も数多いが、中でも上杉謙信の和紙で出来た陣羽織や、直江兼続の兜飾り「愛兜」などは興味深い。本丸跡東南隅の高台には上杉謙信の遺骸を安置していたという御堂(祠堂)跡があり、城内で最も神聖な場所であった。 堀に架かる舞鶴橋は上杉神社の参道入口にあたり、毘沙門天の旗がひときわ目を惹く。舞鶴橋を渡ったところに上杉謙信と上杉鷹山の銅像が建ち、米沢城が長い歴史を持つ上杉家の居城であったことを雄弁に物語っている。 |
| 周辺案内 | まず国指定史跡の上杉家廟所を訪れたい。上杉謙信の廟を中心に上杉景勝から十二代上杉斉定の廟所となっており、樹齢400年を越える老杉があり静寂そのものである。 また春日山林泉寺は歴代藩主の奥方、子女及び重臣の廟所になっている。武田信玄の子息で、上杉景勝の正室菊姫の弟、武田信清などの墓もある。 時間があれば笹野観音にも立ち寄りたい。大同元年(806)に弘法大師の高弟、徳一上人の開基と伝えられる古刹で、伊達、上杉両氏の信仰が篤かったといわれている。境内いっぱいに咲き誇る紫陽花は見事で「あじさい寺」とも呼ばれている。 |