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横 手 城

戊辰戦争で奥羽列藩同盟軍に攻め落とされた城

 所在地:秋田県横手市城山町
 別  称:朝倉城
 築城年:天文23年(1554)
 築城者:小野寺輝道
 形  式:平山城
 遺  構:模擬天守

 地図 
模擬天守
歴 史  横手城は鎌倉時代から地頭職として横手盆地を支配していた小野寺氏十三代輝道が天文23年(1554)に築城した。輝道の後を継いだ小野寺義道は戦国時代の剛勇として知られ、近隣諸国との戦いは絶え間なく、とりわけ北に勢力を伸ばしてきた山形城主の最上義光(もがみよしあき)とは激戦を繰り返した。
 慶長5年(1600)関ヶ原の合戦前夜、最上義光は徳川家康によしみを通じ、石田三成と同盟を結ぶ会津の上杉景勝討伐へと向かい、奥州の諸将は家康の命で山形城に馳せ参じた。しかし、小野寺義道は最上義光への反感から動かなかった。
 このため、関ヶ原の合戦後、小野寺義道は石田三成方と見られ、慶長6年(1601)改易の憂き目にあい、石見国津和野へ流されてしまった。
 翌慶長7年(1602)水戸から秋田に移封された佐竹義宜は久保田城を本拠として築き、横手城を支城とした。横手城には秋田藩の城代が置かれ、寛文12年(1672)から戸村氏が代々城代を世襲して明治維新を迎える。
 戊辰戦争に際して、秋田藩は薩長新政府軍に味方したため、慶応4年(1868)奥羽列藩同盟軍によって横手城は攻め落とされて落城した。
一口話  明治維新の激動期、横手城主の秋田藩城代戸村十太夫は秋田藩代表として白石に赴き、奥羽列藩同盟に加盟したが、秋田藩ではクーデターが起こり、一転して薩長の新政府軍に味方することになり、戸村十太夫は苦境に立たされた。
 同盟破りに激怒した奥羽列藩同盟軍は慶応4年8月に横手城を攻撃、戸村十太夫軍は横手川に架かる橋を切り落として防戦したが、同盟軍は巨木を切って橋代わりとし、大手口になだれ込んで火を放ったため、要害堅固といわれた横手城もついに落城、長い歴史の幕を閉じた。
見どころ  横手城は横手盆地の中心にある朝倉山に築かれたが、朝倉山を包むように横手川が流れ、背後は山また山と奥羽山脈に続く要害堅固な城であった。
 城の普請は石垣を使わず、土塁造りであった。土崩れを防ぐためと、敵が這い登ることが出来ないように一面に韮(にら)を植えたので、韮城とも呼ばれていた。
 現在、横手城跡は横手公園として整備され、大手門か登城道ら本丸跡に至る七曲の坂などが往時の姿をとどめている。昭和40年、二の丸跡に郷土資料館として三層の模擬天守が築かれたが、実際には横手城に天守が築かれたことはなかった。天守最上階の展望台からの眺望は素晴らしく、眼下に横手川と横手盆地、遠くには名山鳥海山も見渡せる。
 公園の南東の一角に、徳川家康の権臣で、「宇都宮釣り天井」で徳川二代将軍秀忠を暗殺しようとしたとの罪を着せられた本田正純の幽居跡がある。本田正純は佐竹氏へ預かりの身となったが、佐竹氏は横手城代に預け、正純は横手城三の丸の居館で悲嘆の生活を送り、73歳で病没した。幽居跡の近くに、正純の墓碑も建っている。
周辺案内  横手といえば伝統の雪祭り「かまくら」が有名。小正月の行事として400年以上の歴史がある。雪を積み上げて室(むろ)を造り、水神様を祀るもので、毎年2月15日〜16日に行われる。静かな夜の闇に灯火と雪明りが浮かぶ様は雪国ならではの情趣があり、数十万人の観光客が訪れる。横手市役所隣接の「かまくら館」では雪で造ったかまくらがあり、1年中体験できる。
 『若い人』と『青い山脈』で有名な石坂洋次郎記念館も訪れたい。横手は弘前市出身の石坂洋次郎が13年間教員生活を送ったところで、記念館には生原稿や遺墨などを展示しているほか、『若い人』が執筆された伊豆の書斎を再現している。

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