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多 賀 城

律令国家の東北経営のための城

 所在地:宮城県多賀城市市川大久保
 別  称:多賀柵
 築城年:神亀元年(724)
 築城者:大野東人
 形  式:古代平山城
 遺  構:政庁跡、建物跡、土塁、石碑
      復元築地塀

 地図 
政庁跡
歴 史  多賀城は律令国家としての体制を整えた奈良朝廷が大野東人政庁の南門跡(おおののあずまひと)に命じて、陸奥国の政治・軍事の拠点として神亀元年(724)に築城したもので、国府と鎮守府が置かれた。
 多賀城には按察使(あぜちし)という高級官僚が配置され、陸奥国のみならず出羽国をも統括していたので「遠の朝廷(みかど)」とも呼ばれていた。
 宝亀11年(780)多賀城は蝦夷(えみし)の首長である伊治砦麻呂(これはりのあざまろ)の乱で焼失するが、まもなく再建された。
 平安時代初頭の延暦21年(802)征夷大将軍に任じられ政庁跡への大路(復元)た坂上田村麻呂は多賀城から大軍を率いて蝦夷最大の拠点であった衣川柵を破り、軍事基地としての鎮守府を胆沢城に移した。これ以後、多賀城は国府として陸奥国の統治を行う中枢基地となる。
 多賀城に赴任した官吏には、日本初の産金を聖武天皇に献上した百済王敬福、万葉歌人として知られる大伴家持などそうそうたる人物が名前を列ねている。
 多賀城の政庁は10世紀には正殿跡その役割をほぼ終えたが、永承6年(1051)に起こった「前九年の役」、永保3年(1083)に起こった「後三年の役」、さらに源頼朝の奥州征伐も多賀城が拠点となり、南北朝時代には南朝方の鎮守府将軍北畠顕家の拠点として名をとどめたが、武士が闊歩する時代のうねりのなかで、多賀城は次第に歴史の彼方へと忘れられてゆく。
 なお、奈良時代の正史『続日本紀』には「多賀柵」の名が登場し、多賀城築城の前からこの地が蝦夷に対する大和朝廷の戦略拠点であったようである。
一口話  古代の東北人は大和政権から「えみし」と呼ばれていた。古くは強い人といった意味で使われていたが、律令国家体制を整えてからは、中華思想の影響で「蝦夷」や「毛人」という字を当てるようになった。これには自分たちより文化レベルが低い人という意味が込められている。
 なお、「蝦夷」は『古事記』には「まつろわぬ人」と記され、野蛮人として征伐することを正当化している。
見どころ  政庁跡の東翼廊跡と復元された築地塀多賀城跡は奈良時代から南北朝時代にかけて陸奥の国府が置かれたところで、国の特別史跡に指定されている。
 仙台平野の北端の低湿地から低丘陵にかけて構築され、約1km四方に築地塀をめぐらした外郭の中央部に南北150m、東西120mの政庁が築かれていた。
 政庁は周囲が築地塀で囲まれ、その中心に正殿、東西に脇殿が配されていた。政庁の南正面壺碑(重要文化財)には礎石式の八脚門であった南門が建ち、その東西には翼廊が取り付けられていたが、今では礎石が残るのみ。政庁へは外郭南門から一直線に大路が通じており、その形式は大宰府や平城京の大極殿に類似している。
 JR国府多賀城駅から5分ほど歩いて行くと外郭南門跡。多賀城の正門の跡で、政庁跡から南方約350mのところにある。発掘調査の結果、瓦葺で屋根が二重の立派な門であったと考えられる。
 政庁跡外郭南門跡近くに覆屋で覆われた有名な多賀城碑が残る。「京を去ること一千五百里 蝦夷国の界を去ること一百二十里 常陸国の界を去ること四百十二里 下野国の界を去ること二百七十四里 靺鞨国の界を去ること三千里」と刻まれている。国の重要文化財であるこの碑は高さ196cm、最大幅92cmで、天平宝字6年(762)に西を正面に建立。壺碑(つぼのいしぶみ)と呼ば正殿跡の礎石れ、西行法師や松尾芭蕉など多くの文人に感銘を与えたという。
 外郭南門跡から政庁跡へ南北にまっすぐに通じる大路は多賀城で最も重要な道路で、その幅広い大路の一部が推定復元されている。
 その雄大な石段を上がると、政庁跡がある。南門跡、翼廊跡、正殿跡、脇殿跡や石敷広場跡などの遺構、さらに部分的に復元されている築地塀を見ながら散策すると、はるかに時空を超えて古代東北の歴史ロマンがよみがえってくる。
周辺案内  多賀城跡とともに国の特別史跡に指定されている多賀城廃寺跡も見ておきたい。多賀城に付属する寺院で、奥州の経営の安定を祈願するために建立されたもの。伽藍配置は九州の大宰府の付属寺院・観世音寺によく似ている。正式名称は明らかではないが、最近の発掘調査の結果「観音寺」ではないかと考えられている。
 また近くには陸奥総社宮がある。平安時代の初め奥州を制圧した坂上田村麻呂が八幡宮を勧請したのが始まりで、鎌倉時代に現在の地に移ったと伝えられている。前九年の役の際、源頼義・義家の親子が「弓懸(ゆみを射るさいに手にはめる革手袋)」を奉納し戦勝祈願をしたことから、弓懸八幡とも呼ばれている。

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