盛 岡 城
南部氏3代が築いた美しい石垣造りの城
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| 二の丸跡の石垣 |
| 歴 史 | 盛岡の地は旧名を不来方といい、南北朝時代には工藤氏が 支配していたが、北奥州統一を目指す南部氏によって攻略された。南部氏は甲斐源氏の流れを汲む南部光行を祖とし、三戸に城を構える三戸南部氏と根城を本拠とする八戸南部氏が勢力を競っていたが、室町時代中期の康正年間(1455〜56)以後、三戸南部氏の勢力が急速に高まり、戦国時代に入って、南部氏二十六代の当主となった南部信直の時代に南部氏宗家の基盤が固まる。 天正18年(1590)豊臣秀吉による小田原征伐の際、南部信直 は津軽為信に一歩遅れをとって津軽の独立を許したものの、秀吉のもとに伺候して本領七郡を安堵された。翌天正19年(1591)南部氏一族の九戸城主九戸政実(くのへまさざね)が反乱を起こしたため、南部信直は秀吉軍の援助のもとに九戸政実を攻略。この九戸の乱後、南部信直は新たに三郡を与えられて10万石となり、居城を三戸城から九戸城に移し、城の名を福岡城と改めた。 しかし、福岡城は領土の北に偏りすぎて支配に不便なため、南部信直は不来方の地に新城を築くこととし、文禄2年(1593)から築城工事に着手。 ![]() 着工後、信直はほとんど京に滞在していたので、工事の総指揮は嫡男南部利直が行った。慶長4年(1599)南部信直は没したが、南部利直は翌慶長5年(1600)の関ケ原の合戦では徳川家康の東軍に属したために本領を安堵され、父の後を引き継いで築城工事を進め、利直は不来方を「盛り上がり栄える岡」になるようにとの願いを込めて盛岡と改称した。 盛岡城が完成したのは利直の後を継いだ南部重直(利直の三男)の時の寛永10年(1633)で、実に40年余の歳月を要したことになる。 ![]() 寛文4年(1664)南部重直が病没。嗣子がなかったため、徳川幕府によって盛岡藩10万石の領地は没収されたが、徳川幕府は北方警備の必要性を考え、改めて南部利直の五男重信に8万石を与えて盛岡藩四代藩主とすると同時に、利直の七男南部直房に八戸藩2万石を与えるという分治政策をとった。 江戸時代後期の文化5年(1808)十一代藩主南部利敬(としのり)は蝦夷地(北海道)警備の功により20万石に加増。盛岡城は初代南部信直から数えて南部氏17代の居城として明治維新を迎える。 |
| 一口話 | 盛岡といえば「わんこそば」が名物。ゲームのようなそば料理で、碗のふたを開けると、後からお給仕さんが掛け声とともに次から次へと碗の中へ一口量のそばを入れる。食べ終わればふたを閉じ、碗の数が記録となる。 「わんこそば」の由来は定かでないが、南部氏二十七代利直が江戸に上る途中、花巻の人々が利直に差し上げたそばの容器が平碗だったことから。また、盛岡が生んだ平民宰相原敬がそばは「わんこ」で食べるが良いと言ったからとかの諸説がある。「わんこ」とはお碗を意味する岩手の方言である。 |
| 見どころ | 盛岡城は北上川と中津川を天然の外堀とし、本丸・二の丸・ 三の丸を一直線上に配し、周囲にいくつもの曲輪を設けた城郭であった。現在、盛岡城跡は国の史跡に指定され、岩手公園となっている。盛岡城跡の何よりの見どころは本丸跡や二の丸跡、腰曲輪跡など各所に見られる美しい石垣で、この石垣は盛岡産の花崗岩を積み上げたもの。石川啄木や宮沢賢治もこの石垣が美しい盛岡城跡をこよなく愛したという。 盛岡城跡には本丸跡・二の丸跡・三の丸跡と、本丸跡を囲むように腰曲輪跡、淡路丸跡、榊山曲輪跡が残っているが、珍しいのは本丸跡と二の丸跡が独立し、その間に朱塗りの橋が架かっていることである。江戸時代後期には本丸御殿と二の丸御殿を合体したため、間の堀には複雑に上下三重に重なる廊下橋を施設したという。本丸跡にはかつて天守の代用をしていた三重櫓跡も残り、淡路丸跡へと至る虎口の石垣もなかなか見ごたえがある。 城跡から眺める岩手山の山容 は美しく、二の丸跡には「不来方のお城の草に寝ころびて空に吸われし十五の心」という石川啄木の歌碑が建っている。また、岩手公園東側には宮沢賢治の格調高い文語詩『岩手公園』の碑文もある。三の丸跡には盛岡城の築城時に出てきた烏帽子岩と呼ばれる巨石があり、南部藩の「お守り岩」として崇拝されてきたという。 今では鶴ケ池と呼ばれているが、往時の堀の一部が残っている。美しい石垣を眺めながら散策しつつ、南部氏の長い歴史に思いを馳せたい。 |
| 周辺案内 | 盛岡の中心を流れる中津川に架かる「上の橋」には、慶長14年銘の青銅の擬宝珠が8個、慶長16年銘のものが10個取り付けられている。このように多く残っているのは全国に例がなく、国の重要美術品に指定されている。重要文化財の岩手銀行中ノ橋 支店は旧盛岡銀行。東京駅の設計者によって明治44年に竣工されたもので、赤レンガ造りの美しいルネサンス風の建物。見逃せないのは原敬記念館。大正時代、平民宰相として活躍した盛岡出身の原敬を記念して生家の一隅に建てられたもの。館内には、原敬の遺品・遺墨のほか、大正10年11月4日、凶刃に倒れた際の着衣など約4千点が展示され、敷地内には鎌倉の別荘の書斎も移築復元されている。 |