秋 田 城
最北に築かれた古代の大規模な政庁
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| 復元外郭東門 |
| 歴 史 | 秋田城は奈良朝廷が東北開拓の拠点として天平5年 (733)高清水と呼ばれる丘陵上に築いた城柵で、出羽柵と呼ばれていた。 やがて天平宝字4年(760)頃、この城柵は秋田城と呼ばれるようになった。出羽国の政治を行う国府が置かれ、また、津軽・蝦夷のほか中国大陸の渤海国との交易の拠点としても重要な役割を果たしていた。 平安時代の天長7年(830)秋田地方の大地震で城郭は大きな被害を受け、さらに元慶2年(878)には半年にも及ぶ蝦夷の大反乱によって国守が逃亡するという騒動が起こり、朝廷では援軍を送ってようやくこれを鎮圧。天慶2年(939)にも蝦夷が反乱を起こすなど不安な政情が続き、永承6年(1051)に勃発した前九年の役後、秋田城介は遙任制となって在城しなかったため秋田城の役割も衰退し、歴史上からその姿を消すことになる。 |
| 一口話 | 秋田地方の蝦夷は極めて頑強で、度々反乱を起こしたため、出羽の国司が国府の移転を願い出たり、鎮守府将軍が城を放棄したいと訴えることもあった。 もちろん朝廷はこれを認めず、むしろ強化方針として出羽介を秋田城に置くことを決め、ここに秋田城介が誕生することになる。 |
| 見どころ | 秋田城は高清水丘陵上に築かれ、周囲550m四方を 瓦葺の土塀で囲まれていた。これを外郭築地塀と呼んでいるが、重厚な土塀と瓦葺の屋根は蝦夷と呼ばれていたこの地方の住民に律令政府の力を誇示するものであった。秋田城跡は奈良時代から平安時代にかけての貴重な遺跡として約90ヘクタールが国の史跡に指定されている。 外郭築地塀に囲まれたほぼ中央に東西94m、南北77mの横長の一角があり、ここが秋田城の中心であった政庁跡だが、外郭築地塀内は現在もなお発掘調査中で、出土品の一部が出土 品収蔵庫に展示されている。平成6年から4年がかりで発掘調査に基づいて外郭東門と築地塀の一部が復元され、1200年の時を越えて古の歴史を訪れるものに語りかけてくる。 外郭東辺の外側に鵜ノ木地区と呼ばれる一帯があり、そこから建物跡や井戸跡、沼跡、さらに全国的に例を見ない古代の水洗式の厠跡が発見された。 鵜ノ木地区は歴史公園として 整備が進んでいる。縄文時代以前に飛び砂によって川がせき止められてできたという自然の沼が復元され、沼の側に覆屋に覆われた井戸跡がある。平安時代に作られたものといわれ、浅いながらも現在でもなお枯れることがなく水が湧き出ている。周辺の地形は平安時代も現在と大きな変化がないことから貴重な遺構といえる。沼越しに眺める外郭東門と築地塀の姿が美しい。 沼の南側には建物跡を示す礎石が幾つもあり、「迎賓館」であったとの説もあるが鵜ノ木地区は今もなお謎に包まれている。 |
| 周辺案内 | 佐竹氏の居城であった久保田城跡を見学した後、男鹿半島を訪れるのも良いだろう。標高355mの寒風山からの展望もさることながら、入道崎のかなたに広がる日本海に沈む夕日は実に美しく、時間が経つのも忘れてしまう。 この地方の伝統行事である「なまはげ」は是非見学したい。正月15日夜の行事で、青年数人が鬼面をかぶり、蓑を着て木製の刃物などを携え、戸毎に訪れて酒食の饗応を受け祝言を述べる行事だが、今では「なまはげ館」で常時実演され、まことに興味深い。 |