大 洲 城
(おおずじょう)
肱川の清流に臨む4基の櫓が現存する城
![]() |
地図 ![]() |
|
| 高欄櫓(重要文化財) |
| 歴 史 | 大洲の地は古来「大津」と呼ばれていた。南北朝時代の 元弘元年(1331)伊予の守護に任じられた宇都宮豊房が大津の地蔵ヶ嶽に築城したと『宇和島文書』に記されている。築城にあたっては肱川の洪水で石垣や櫓が押し流され、一進一退の難工事であった。このため、人柱を立てることとし、選ばれたのが「おひじ」という身寄りのない娘であった。「おひじ」は「城の名と城の麓を流れる川の名を私の名前と同じにして後の世まで忘れないで...」と言い残して人柱になったと伝えられている。大洲城の別名を「比志城」、肱川を「比志川」というのもこのためである。娘を弔う地蔵尊が丘陵の中腹に祀られたことから地蔵ヶ嶽城とも呼ばれた。 宇都宮氏は8代にわたって地蔵ヶ嶽城を本拠として土佐の長曾我部氏、宇和島の西園寺氏、伊予の河野氏などと戦いを繰り返すが、天正8年(1580)宇都宮氏八代豊綱は四国統一を目指す長曾我部元親との戦いに敗れ、名族宇都宮氏の歴史は幕を閉じた。 その後、宇都宮氏の旧臣であった大野直之が城主となるが、天正12年(1584)豊臣秀吉の四国征伐が始まる。秀吉の命を受けた小早川隆景の軍勢3万余騎との攻防戦は1ヶ月に及び、肱川に取り囲まれた大洲城の堅固さを世に知らしめた。しかし、秀吉の勢いには勝てずついに開城。その後、河野通直、次いで戸田勝隆が大洲城主になるが、文禄4年(1595)藤堂高虎が宇和島城主になると、大洲城は宇和島城の支城として藤堂高虎の支配下に入った。 慶長14年(1609)淡路洲本から脇坂安治が5万3千石で大洲城主となると、四層四階の層塔式天守を築くなど城の大修築を行った。 脇坂氏2代の後、元和3年(1617)大坂の陣の軍功により加藤貞泰が伯耆米子から6万石で入封。以後、大洲城は加藤氏13代の居城として明治維新を迎える。 |
| 一口話 | 脇坂安治は羽柴秀吉(後の豊臣秀吉)が柴田勝家と戦った賤ヶ岳七本槍の一人で、秀吉子飼いの勇猛果敢な武将であった。秀吉の小田原征伐や文禄・慶長の役(朝鮮出兵)でも軍功をあげた。 慶長5年(1600)の関ケ原の合戦では石田三成方の西軍から徳川家康方の東軍へ走り、徳川幕府の時代になってもお家を安泰とし、脇坂安治の子孫は播州龍野城主として明治維新まで続いた。 |
| 見どころ | 大洲城跡は肱川の清流に臨む小高い丘陵の上に本丸、 中腹の腰部に本丸を囲むように二の丸が設けられ、その外側に内堀をめぐらしていた。さらにそれを囲むように三の丸を配して上級武士の住まいとしたが、現在では本丸跡と二の丸跡が残るだけである。本丸跡には台所櫓(重要文化財)と高欄櫓(重要文化財)が現存している。台所櫓の一階内部は3分の1が土間になり、籠城の時の炊事に使用できる櫓だったことからこの名がついた。城の中心である本丸に台所を備えた櫓があったことは、度重なる実戦をくぐり抜けてきた大洲城だけに興味深いものがある。 高欄櫓の二階は縁をめぐらした望楼式で、かつては高欄櫓と台所櫓を小天守として、四層四階の大天守と渡り櫓で結び、連結天守を構成していた。平成16年、明治時代の古写真などを参考に四層四階の天守が木造で忠実に復元され、往時の姿が蘇った。 また、肱川に臨む二の丸跡には苧綿(おわた)櫓(重要文化財)、少し離れた大洲高校のグランドになっている三の丸跡には南隅櫓(重要文化財)が現存している。 樹木で覆われ青々とした大洲城跡の丘陵が肱川の清流に突き出した姿は一幅の絵画を見るような美しさで、要害堅固な城であったことを彷彿とさせる。 |
| 周辺案内 | 伊予の小京都と呼ばれる城下町大洲は肱川の清流が美しく、明治・大正時代の町並みが残っているのでゆっくりと散策したいところである。![]() 特にNHKの朝の連続テレビ小説「おはなはん」のロケが行なわれた通称「おはなはん通り」は崩れかかった土蔵などが残り、郷愁を感じさせる通りである。明治時代の建物が建ち並ぶ小路も歩いてみたい。 肱川の景勝地”臥龍淵”に望む臥龍山荘は大洲の観光名所で多くの人々が訪れる。臥龍院、不老庵、知止庵はそれぞれに数寄を凝らした建築で、周囲の山々と肱川の河原の自然を取り入れた借景庭園も自然と人工の調和を見せ、四季折々に美しい。 大洲藩加藤三代藩主加藤泰恒が「臥龍淵」と命名したといわれ、幕末まで歴代藩主の遊覧の地であった。明治に入って荒れ果てたが、明治時代の貿易商河内寅次郎が4年の歳月をかけて現在の姿に築き上げた山荘である。 |