松 山 城
重要文化財が数多く現存する四国随一の名城
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| 現存天守(重要文化財) |
| 歴 史 | 文禄4年(1595)文禄の役(豊臣秀吉の朝鮮出兵)での戦功 により、賤ヶ岳七本槍で知られる加藤嘉明は伊予4郡6万石を与えられ、伊予郡正木城に入った。慶長5年(1600)関ケ原の合戦では加藤嘉明は東軍の徳川家康方に属して軍功をあげ、20万石に増封された。これを機に加藤嘉明は大大名の名にふさわしい居城を構えるため、慶長6年(1601)から道後平野のほぼ中央に位置する標高132mの勝山山上に松山城を築くこととし、20年以上もの歳 月を費やして五層六階の連立式天守をはじめ、二の丸・三の丸などを配した大城郭を築き上げた。しかし、松山城の完成を目前にして加藤嘉明は寛永4年(1627)に会津若松に移封され、替わって蒲生氏郷の孫・蒲生忠知が出羽上山より24万石で松山城主となるが、蒲生忠知は寛永11年(1634)嗣子なく逝去したため、1代でお家は断絶。 翌寛永12年(1635)四国一帯の押さえとして伊勢桑名より徳川家康の異父弟・松平定勝の子である松平定行が15万石で松山城主となった。 ![]() 松平定行は内政に意欲的に取り組むとともに、城の大改修も行ない、天守を三層に改めるとともに27もの櫓群を完成させる。天守を三層に改めたのは徳川幕府への遠慮からといわれている。 定行が築いた三層の天守は天明4年(1784)落雷で焼失したが、幕末の安政元年(1850)に再建され、今日に至っている。 松平定行の入封以後、松山城は徳川譜代松平氏15代の居城として明治維新を迎えた。 |
| 一口話 | 豊臣恩顧の大名・加藤嘉明は伊予松山20万石からさらに会津若松40万石の太守となる。しかし、嘉明の後を継いだ加藤明成は徳川幕府の意向を察して領地返上を申し出て改易。 ただ、徳川三代将軍家光は加藤家の絶えるのを惜しんで、加藤嘉明の孫である加藤明友に近江水口2万石を与えて水口藩が成立。福島正則が1代、加藤清正が2代で改易になったのに比べ、徳川幕府の豊臣恩顧の外様大名取り潰し政策の中にあって、加藤嘉明の子孫はほそぼそながら水口藩主として明治維新まで続くことになる。 |
| 見どころ | 標 高132mの勝山山上に築かれた松山城は国の史跡に指定され、連立式天守をはじめ城門や櫓など数多くの重要文化財の建物が残っている。山麓の黒門跡から二之丸史跡庭園を見学した後、山上の大手門跡まで登城道を約30分ほどかけて登って行くのが本来だが、ロープェイ、またはリフトで本丸跡まで登るのが一般的なコースとなっている。 山頂駅からしばらく登ると大手入口の重要な拠点であった揚木戸門跡に至る。ここから眺める本丸跡の高石垣は見事というほかはない。山麓の二の丸跡へ通じる大手門跡から眺める高石垣の上に建つ太鼓櫓はなか なか絵になる風景。大手門跡から屈折した登城道を行くと戸無門(重要文化財)に至る。高麗形式の戸無門は本丸大手の正門の固めで、昔から戸が無いのでこの名がある。 戸無門をくぐると次は筒井門。この門は築城の際、正木城にあったものを移築したものと伝えられ、昭和46年に復元。東続櫓と西続櫓を伴った櫓門で、戸無門と同じく本丸大手の正面を固める重要な門である。 筒井門のすぐ脇に隠門(重要文化財)がある。戸無門から筒井 門に迫る敵を側背から急襲するための櫓門で、規模は小さいながらもその豪放な構えは加藤嘉明の築城当時の面影を今に伝えている。太鼓門(昭和47年復元)をくぐるといよいよ本丸跡。かなりの広さで、太鼓門・同続櫓・太鼓櫓(昭和48年復元)・巽櫓(昭和61年復元)は高さ約7mの石垣の上に一線に構築され、筒井門からさらに侵入してくる敵に対し厳しい備えをみせている。また、本丸跡には直径2m、深さ44mの井戸も現存し、昭和33年に復元された馬具櫓も建っている。 天守群に入る前に、向かって左側に建つ紫竹門(重要文化財)とそれに連なる紫竹門西塀(重要文 化財)を見ておきたい。本丸の大手と搦手を大きく仕切ったところで、搦手を固める重要な構えをみせている。搦手には乾門・同東続櫓(昭和57年復元)と乾櫓(重要文化財)が建っている。乾櫓は本丸の西北隅、すなわち乾の隅に建つ櫓で、乾門・同東続櫓とともに搦手を防衛する重要な構え。また、野原櫓(重要文化財)は本丸の北側を防衛する重要な櫓で、松山城内最古の建造物。 また、天守群の東には艮(うしとら)門・同東続櫓(昭和59年復元)が建つ。敵が搦手の乾門方面に迫った時、この門から出撃して側面をつく戦法を考慮したもの。 天守への入口は高麗門様式の一ノ門(重要文化財)で、天守に通じる重要な門だけに、木割りも大きく豪放な構えで見ごたえがある。この門をくぐると一ノ門南櫓(重要文化財)・一ノ門東塀・二ノ門(重要文化財)・二ノ門南櫓・三ノ門(重要文化財)・三ノ門南櫓(重要文化財)によって枡形という正方形に仕切られている。筋鉄門をくぐるといよいよ天守入口の中庭に至る。筋鉄門東塀は重要文化財だが、筋鉄門・小天守・南隅櫓・北隅櫓・多聞櫓・十間廊下は昭和43年に復元。小天守は二層二階、多聞櫓は南隅櫓と小天守を連結。南隅櫓と北隅櫓を十間廊下で結び、内部には松山城にまつわる品々が展示されている。 天守(重要文化財)は三重三層地下一階付の建築で、日本の現存天守の中で最も後期に建てられたものだが、 周囲の建造物に調和させた建築様式をとり、戦国時代の城を継承しているという点で興味深い。地下一階は穀倉(重要文化財)で、ここが天守の入口となり、一階には初代城主加藤嘉明の甲冑や東海道宿場図屏風などが展示され、見ごたえがある。天守の北側には玄関多門・内門(ともに昭和43年復元)と高麗門様式の仕切門(重要文化財)・仕切門内塀(重要文化財)が残り、乾方面への備えの役割を果たしている。 また、東北の隅には鬼門にあたるところから、城の安泰を祈るため菅原道真を祀った天神櫓(昭和54年復元)が建っているが、城の主郭部に戦略的価値の少ない櫓があるのも珍しい。 山麓には堀の一部も残り、天守を取り囲むように建ち並ぶ櫓や城門、塀、石垣、屈折した城道を見る時、松山城がいかに要害堅固な縄張りであったことがわかるだろう。二之丸史跡庭園には発掘調査に基づいて基壇の上に表御殿跡と奥御殿跡の部屋の間取りが記され、往時の面影を偲ばせる。御殿跡の背後には岩や池や滝を配置した庭園があるが、ここでの最大の見ものは御殿跡内にある大井戸である。門や塀などは復元されたものだが、この大井戸だけは往時の貴重な遺構である。 松山市内のどこからでも一望できる松山城は松山のシンボル的存在で、年間を通じて観光客が絶えることはなく、まさに四国隋一の名城といえよう。 |
| 周辺案内 | 松山市内にある道後温泉は『日本書紀』にも記されている我が国最古の温泉。重要文化財の道後温泉本館は木造のどっしりとした建物で、多くの観光客が押し寄せるほどの賑わいをみせている。夏目漱石ゆかりの「坊ちゃんの間」や皇族専用の浴室もある。 道後温泉近くには子規堂がある。正岡子規の菩提寺・正宗寺境内の生家を記念館にしたもので、子規愛用の勉強机や遺墨が展示されているが、中でも夏目漱石や弟子たちについて寸評した額は子規の面目躍如としたもので興味深い。 松山市立子規記念博物館は正岡子規の詩の世界を通して、より多くの人々が松山の伝統文化や文学に触れてもらうために開設された博物館で、市民の学習の場、観光客のビジターセンターとして親しまれている。 石手寺は聖武天皇の神亀5年(728)に創建された古刹。国宝に指定されている二王門は全国屈指の山門で、中に安置されている金剛力士像は運慶作と伝えられている。境内には重要文化財の本堂・三重塔・鐘楼が建ち並び、宝物館には見ごたえのある工芸品や絵画などが展示されているので是非立ち寄りたい。 |