若桜鬼ヶ城
(わかさおにがじょう)
秀吉が因幡攻略の拠点とした山城
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| 歴 史 | 若桜城は鎌倉時代初期の正治2年(1200)頃、矢部輝種によって築かれたといわれる。以後、矢部氏16代の居城となるが、室町時代には山名氏の勢力下に入った。 天正3年(1575)17歳の尼子勝久を擁した名将山中鹿之介が主家の尼子氏再興を図って、織田信長の後押しもあり若桜城を攻め落とし、城主を捕虜にして若桜城に籠もった。この報せを聞いた吉川元春(毛利元就の次男)は直ちに大軍を率いて若桜城を包囲、山中鹿之介一党は翌年まで持ちこたえたもののついに落城。 天正6年(1578)信長から中国攻めを命じられ、播磨から因幡に軍勢を進めた羽柴秀吉(後の豊臣秀吉)は若桜城を攻略。木下重賢に若桜城を守らせ、因幡平定の拠点とした。 天正9年(1581)鳥取城が落城し、因幡が平定されると、木下重賢は2万石を与えられ若桜城主となった。しかし、木下重賢は慶長5年(1600)の関ヶ原の合戦で西軍に属して自刃。代わって摂津三田より山崎家盛が2万5千石で若桜城主となる。 元和3年(1617)山崎家盛の後を継いだ山崎家治は備中成羽に移封、一国一城令により若桜城は廃城となった。 山崎氏移封後、若桜の地は鳥取藩主池田氏の領国となり、元禄13年(1700)鳥取城主池田光仲の五男清定が1万5千石を分知されて居館を構え、若桜池田氏の初代となり、以後、池田氏が10代続いて明治維新を迎える。 |
| 一口話 | 昭和16年、鳥取県八東町富枝の矢部家で「矢部氏系譜」が発見され、この系譜によって、それまで謎に包まれていた若桜城の起源や築城者が断片的ながら明らかになった。 この矢部氏も十六代矢部山城守の時、山中鹿之介率いる尼子氏残党に攻められて落城。若桜城は播磨・但馬・美作に通じる要衝の地であったため、戦国時代には激しい争奪戦の舞台となる。 |
| 見どころ | 若桜城は標高445mの鶴尾山に築かれた総石垣造りの山城で、鳥取城・鹿野城とともに因幡三名城の一つに数えられている。山頂の主郭部に天守台・本丸・二の丸・三の丸を配した連郭式山城で、鬼ヶ城と呼ばれたほどの要害堅固な城であった。 矢部氏が築いた若桜城は砦程度のものであったが、豊臣大名の一人である木下重賢によって総石垣の山城に改築されたという。 若桜鬼ヶ城跡には城山林道があり、山頂近くまで車で登れる。駐車場から尾根沿いの馬場を通り、主郭部まで徒歩で約15分。石垣や土塁、空堀などが見られ、本丸跡にはかなり大きな天守台が残っている。特に石垣は山麓からでも確認できるほどで、その石垣を覆いつくすように樹木が生い茂り、綺麗に整備された城跡よりも、かえって戦国時代の争奪戦となった山城の風情を感じさせる。 |
| 周辺案内 | 若桜歴史民俗資料館は明治40年に建てられた若桜銀行を移築、復元したもの。典型的な土蔵造りで、在りし日の豪商の面影を伝えている。若桜町内の歴史や民俗資料を紹介し、庭園では郷土の名石「三倉石」が見られる。 若桜には旧家の白塀の土蔵が建ち並ぶ蔵通りがあり、かつて宿場町として栄えた面影を残し、格好の散歩道となっている。 国の重要文化財に指定されている不動院岩屋堂は是非訪れたいところ。天然の岩窟内に建てられた岩屋堂は大同元年(806)飛騨の匠が建築したもの。大伽藍を有する寺は秀吉の兵火で焼失し、この岩屋堂だけが焼け残った。本尊の不動明王は弘法大師が刻んだものと伝えられている。 |