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羽 衣 石 城
(うえしじょう)

栄枯盛衰の歴史を辿った南条氏10代の山城

 所在地:鳥取県東伯郡湯梨浜町羽衣石
 築城年:貞治5年(1366)
 築城者:南条貞宗
 形  式:山城
 遺  構:石垣、堀切、郭跡、模擬天守

 地図 
模擬天守
歴 史  羽衣石城は室町時代初期の貞治5年(1366)、足利尊氏に仕えて伯耆国に所領を得た南条貞宗が築城。以後、室町時代を通じて南条氏代々が居城して栄華を誇ったが、戦国の世となった大永4年(1524)南条氏八代宗勝の時、月山富田城を本拠とする尼子経久に攻められて羽衣石城は落城。南条宗勝は家臣とともに山名氏を頼って因幡の地に逃れ、不遇の日々を送った。
 南条宗勝を追いやった後、尼子経久は一族の尼子国久を羽衣石城主とし、因幡侵攻の拠点とした。天文9年(1540)南条宗勝は尼子国久が安芸を攻めた隙を突いて羽衣石城奪還を図ったが、またも惨敗。再び因幡に逃げ帰ることになる。
 永禄9年(1566)戦国の雄尼子氏が毛利氏によって滅亡すると、ようやく南条宗勝は月山冨田城に入った吉川元春(毛利元就の次男)の支援を得て羽衣石城主に返り咲いた。
 しかし、宗勝の後を継いだ南条氏九代元続(もとつぐ)は織田信長の毛利攻めの総大将を務める羽柴秀吉(後の豊臣秀吉)に味方したため、天正7年(1579)吉川元春率いる毛利軍は三方に分かれて羽衣石城を攻撃。このため南条軍は総崩れとなり、城主南条元続は自刃しようとしたが家臣に諌められ、父宗勝と同じく三徳の山を越えて因幡に落ち延びた。
 翌天正8年(1580)秀吉軍の加勢を得て南条元続は吉川軍と戦い、羽衣石城を奪回。その後も吉川元春との攻防戦が続くが、天正10年(1582)本能寺の変で信長が倒れると秀吉が急遽備中高松城で毛利側と和睦を結んだため、南条元続は伯耆西三郡を領有し、羽衣石城も安泰となった。
 天正19年(1591)南条元続は激動の生涯を終え、子の元忠が家督を継いだが、慶長5年(1600)関ヶ原の合戦で南条元忠は石田三成の西軍に属したため改易となり、羽衣石城も廃城となった。
 生き延びた南条元忠は元和元年(1615)大坂の陣に際して豊臣方につき奮戦したが、徳川家康方に内通したとの疑いで大坂城内で切腹させられ、ここに南条氏10代250年の歴史の幕は閉じた。
一口話  羽衣石城を築いた南条貞宗は塩冶判官(えんやはんがん)高貞の次男で、伯耆に所領を得て南条氏と名乗り、南条氏十代の初代となった。
 塩冶判官高貞といえば赤穂浪士事件の芝居を集大成した『仮名手本忠臣蔵』では浅野内匠頭のことである。吉良上野介は足利尊氏の執事・高師直で、南条氏の名は歴史から消えても、その祖・塩冶判官は忠臣蔵が演じられる限り忘れられることはないだろう。
見どころ  羽衣石城は標高376mの急峻な羽衣石山中に築かれた要害堅固な山城である。山頂部に本丸・二の丸・三の丸を配し、二段の帯曲輪が主郭羽衣石部を形成していた。
 この主郭部は良く整備され、本丸跡の敷地はかなり広く、平成2年に三層三階の模擬天守が建てられた。模擬天守の下にはわずかではあるが石垣も残っている。帯曲輪跡には展望台があり、東郷湖など眺望は絶佳。
 中腹の駐車場までは車で登ることができる。そこから山頂までは約20分程だが、途中に石垣や曲輪跡群が残っている。
 山中に羽衣石という巨大な岩がある。昔、天女が舞い降りて、この大石に羽衣をかけて麓で入浴したという伝説から羽衣石の地名となった。
 山麓から仰ぎ見る羽衣石城跡は美しい姿を見せ、南条氏10代の有為転変の歴史を物語るかのようだ。
周辺案内  倭文神社は伯耆国の一ノ宮。境内に隣接する山中には伯耆一ノ宮経塚がある。古くから倭文神社の祭神である下照姫命の墓と言い伝えられてきたが、大正4年、経塚の中から平安時代初期の銅経筒をはじめ仏像、銅鏡、瑠璃玉など数多くの遺物が発見されて話題を呼び、出土品はすべて国宝に指定された。
 東郷町といえば「鶴の湖」の愛称で親しまれている東郷湖が有名。山陰八景の一つに数えられ、東郷湖の畔には東郷温泉があり、湖を眺めながら温泉に浸かれば旅の疲れも癒される。

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