[PR]子育てママさんへ:3年毎に15万円うけとれる保険?

津 和 野 城

見事な石垣が残る中世以来の山城

 所在地:島根県鹿足郡津和野町町田
 別  称:三本松城
 築城年:永仁3年(1295)、慶長5年(1600)
 築城者:吉見頼行、坂崎直盛
 形  式:山城
 遺  構:石垣、天守台、曲輪跡

 地図 
三十間台跡と人質郭跡の石垣
歴 史  文永・弘安の役(蒙古襲来)の軍功により、天守台鎌倉幕府は弘安5年(1282)吉見頼行を能登国から西石見の地頭に任命し、海岸防備にあたらせた。
 吉見頼行は永仁3年(1295)から標高372mの城山の山頂に築城を開始、正中元年(1324)吉見氏二代頼直の時に完成したといわれ、当時は三本松城と呼ばれていた。以後、吉見氏は鎌倉時代から戦国時代にかけ14代300年間にわたって、逐次城の増改築を行い、要害堅固な中世山城を築き上げた。
 戦国時代に入って、天文23年(1554)十一代吉見正頼西櫓門跡の時、津和野城は周防・長門の守護大名であった大内義隆を滅ぼした陶晴賢(すえはるかた)の大攻撃を受けたが、100日余の籠城戦の末に陶晴賢を退却させた戦いは有名で、世に「三本松城の役」と呼ばれ、この山城の要害堅固さを天下に知らしめた。
 慶長5年(1600)関ケ原の合戦に際して、十四代吉見広長は西軍の総大将である毛利輝三十間台跡から見下ろす人質郭跡と三の丸跡元に従ったため、毛利氏の萩への転封にともなって長門に退転。
 替わって関ケ原の合戦で軍功のあった坂崎出羽守直盛が津和野城主となり、城の大修築を行ない、高石垣の近世山城を築き上げ、現在見られるような津和野城跡の原型を造りあげた。
 この坂崎出羽守も千姫事件のため1代でお家断絶となり、元和3年(1617)亀井政矩が因幡鹿野より4万3千石で入封。以後、津和野城は亀井氏11代の居城として明治維新を迎える。
一口話  元和元年(1615)大坂夏の陣に際して、坂崎出羽守は炎上する大坂城内から徳川家康の孫である千姫を満身創痍となって助け出した。これは千姫を与えるという家康の言葉を信じたからであった。
 ところが意に反して千姫は本多忠刻(ただとき)のもとに嫁ぐことになった。これを知った出羽守は千姫の輿を奪い取り、刺し違えようとまで思いつめた。この騒動の張本人である家康はすでに亡く、千姫の父二代将軍徳川秀忠は幕府への反逆として断固たる処置を命じた。
 老中評議の結果、坂崎出羽守の自決で決着させようとしたが、出羽守はこれを聞き入れず、結局坂崎家の家老が出羽守を殺害しその首を幕府に差し出した。このため坂崎家は津和野城主となってわずか16年でお家断絶。坂崎出羽守は悲劇の武将というほかはない。
見どころ  太鼓丸跡からの三十間台跡の石垣津和野城は三本松城とも呼ばれる山陰地方を代表する山城で、国の史跡に指定されている。険しい山頂には見事な石垣が残り、そのスケールには圧倒される。
 山頂までは観光リフトで登ることができ、山上駅から5分ほど行くと出丸跡。坂崎出羽守直盛が津和野城改築の時に築いたもので、直盛の弟で家老の浮田織部が築城の指揮をとったことから「織部丸」とも呼ばれている。
 出丸跡から良く整備された尾根道を三十間台跡から眺める津和野の町並み10分ほど行けば本丸跡の大手門であった東門跡で、ここから見上げる三段櫓跡や天守台の高石垣は見ごたえがある。
 興味深いのは天守台が本丸の一段低いところに築かれていること。坂崎出羽守が築いた近世城郭よりは吉見氏時代の中世の山城の方が広かったという。
 天守台側の西櫓門跡から三の丸跡に進みたい。三の丸跡から三の丸跡眺める三十間台跡と人質郭跡の高石垣はまさに圧巻で、津和野城跡を代表する光景。人質郭跡には上がることが出来ず、いかにもこの名前にふさわしい。
 三の丸跡から引き返し、天守台から三十間台跡に上がる。細長い三十間台跡とそれに連なる太鼓丸跡からは山と山に囲まれた津和野の町並みが箱庭の様に見え、時が経つのも忘れてしまうほど。
 津和野城跡を散策し、さらに山麓から仰ぎ見れば、津和野城がいかに要害堅固な山城であったかが実感できる。
周辺案内  山陰の小京都と呼ばれる津和野は四季を通じて多くの観光客森鴎外旧宅が訪れる。JR津和野駅から殿町に至る町並みは歴史を感じさせる家々が建ち並び、特に殿町はなまこ塀と堀割に泳ぐ鯉の姿が美しい。亀井氏11代にわたって家老職を勤めた多胡家の家老門も残り、絶好の散策地である。
 森鴎外旧宅は文豪鴎外が幼少時代を過ごした家で、鴎外の勉強部屋や藩医の家らしく西周旧居調剤室も残っている。隣接して新設された記念館には森鴎外のあらゆる資料が展示されており興味深い。
 森鴎外旧宅の近くに西周(にしあまね)旧居がある。幕末から明治にかけての哲学者西周が21歳まで暮らした家で、茅葺の小さな母屋と勉強部屋に使った土蔵などが残っている。太鼓谷稲荷神社参道の鳥居
 日本五大稲荷の一つに数えられる太鼓谷稲荷神社は津和野城の守り神とともいわれ、参道にトンネルのように建ち並ぶ千本余の朱塗りの鳥居が見事。
 是非訪れたいのは乙女峠記念聖堂(マリア聖堂)。その愛らしい名前とは裏腹にキリシタン殉教の地である乙女峠に建っている。キリスト教が禁止されていた明治元年、長崎から送られてきた隠れキリシタンは津和野藩の改宗の勧めにも応じず、36人が殉教の道を選んだ。聖堂のステンドグラスにはその悲しい様子が描かれている。

【津和野町のホームページへ】

   


[PR]三井住友海上きらめき生命:医療保険のご案内と資料請求はこちらから