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月山富田城
(がっさんとだじょう)

戦国大名尼子氏80年の夢の跡

 所在地:島根県安来市広瀬町富田
 別  称:月山城
 築城年:文治元年(1185)、文明18年(1486)
 築城者:佐々木義清、尼子経久
 形  式:山城
 遺  構:石垣、土塁、井戸跡、郭跡、
      復元侍所、主屋

 地図 
二の丸跡
歴 史  月山富田城の歴史は古く、鎌倉時代初めの文治元年花の壇と月山(1185)近江源氏の血を引く佐々木義清が出雲・隠岐の守護職となり、月山に居館を構えた。これが月山富田城の始まりである。
 その後、塩冶氏、山名氏、京極氏と守護職が替わり、応永2年(1395)京極氏の守護代として尼子持久が月山富田城に入り、ようやく戦国大名尼子氏が歴史の表舞台に登場する。尼子持久の子清貞は京極氏からの独立を画策するが失敗し、その子経久と共に月山富田城を追われた。
 その2年後の文明18年(1486)尼子経久は京極氏の守護代である塩冶掃部介を滅ぼし、七曲がり月山富田城を乗っ取った。尼子氏中興の祖といえる尼子経久は月山富田城を大幅に改築、この城を拠点に近隣諸国を攻め滅ぼし、山陰・山陽11ヵ国の太守にのしあがった。
 天文6年(1537)一代で大領土を手中にした尼子経久は孫の晴久に家督を譲った。この前後から安芸を中心に毛利元就が勢力を伸ばし、中国地方は尼子氏と毛利氏の2強がにらみ合って攻防を繰り返すことになる。
 天文23年(1554)尼子晴久は毛利元就が仕掛けた謀略にかかり、尼子氏最強の軍団で塩谷口門跡ある新宮党を率いる尼子国久(経久の次男で晴久の叔父)を殺害。新宮党を失った尼子氏に対して永禄7年(1564)毛利氏の大軍が出雲に侵攻、尼子晴久の後を継いだ義久の守る月山富田城を完全に包囲。山中鹿介ら尼子十勇士の奮戦及ばず、永禄9年(1566)尼子義久は毛利の軍門に降り月山富田城を開城、ここに戦国大名尼子氏80年の歴史は幕を閉じる。
 雑用井戸月山富田城は毛利氏の支配するところとなり城代を置いたが、天正19年(1591)吉川広家(毛利元就の孫)が12万石で月山富田城主となり、米子に湊山城(米子城)も築いた。
 慶長5年(1600)関ケ原の合戦では毛利輝元(毛利元就の孫)が西軍の総大将であったため、その塁が及んで吉川広家は岩国に転封。替わって堀尾吉晴が24万石で月山富田城主になる。しかし、慶長16年(1611)堀尾吉晴は月山富田城が交通の不便な山城であることから松江に城を移したため、一国一城令により月山富田城は廃城となった。
一口話  尼子十勇士の中でもとりわけ有名なのは山中鹿介幸盛である。三日月に向かって「願わくば我に七難八苦を与えたまえ」と祈って、毛利氏の大軍に対して1年半にわたり戦い続けた。
 月山富田城の落城後は新宮党の生き残りである17歳の尼子勝久を主君と仰いで尼子氏再興のため各地で転戦。天正5年(1577)播磨の上月城に籠るが、翌天正6年(1578)毛利軍の攻撃の前についに力尽き勝久は自刃。山中鹿介は捕えられて備中国甲部川で殺されるが、その武勇伝は今日まで語り継がれている。
見どころ  月山富田城は飯梨川右岸の月山(標高197m)を中心に千畳平複雑な尾根を巧みに活用して築かれた複郭式の山城で、国の史跡に指定されている。
 山麓から登って行くとまず千畳平に至る。ここは尼子氏時代山中鹿介幸盛の銅像の勢揃い場で、さらに行くと太鼓壇。尼子経久の頃、この丘に太鼓をつるした建物があったことからこの名がある。
 太鼓壇から奥書院平に向かう途中に槍を手に願をかける山中鹿介幸盛の銅像が建つ。良く整備された尾根道を登ってゆくと花の壇。
 花が数多く植えられていたことからこの名があるが、発掘調査の結果、花の壇の南側は武将の生活の場として、北側は戦の時に兵士たちが待機する場として利用されたと考えられている。花の壇に復元された侍所と主屋花の壇には主屋と侍所が復元されており、戦国時代の建物の様子がうかがえて興味深い。花の壇から眺める月山の山容も格別。
 花の壇からさらに登って行くと実に広々とした御殿平に出る。月山中腹に位置する御殿平は約3000平方mの広さがあり、御殿平(山中御殿)月山富田城の中心となる山中御殿といわれた建物があったところ。
 御殿平は菅谷口、塩谷口、大手口という主要通路の最終合流地点で、最後の砦となる月山山頂に築かれた三の丸・二の丸・本丸へ通じる要の郭として造られた軍事的に重要な拠点であった。
 このため郭の周囲には高さ5mほどの石垣や門、櫓、塀などを厳重にめぐらして敵の侵入を防いでいた。現在でも堅牢な石垣が残るが、なかでも塩谷口門跡の石垣は見事。菅谷門跡近く三の丸跡の石垣には今も水が湧き出る雑用井戸が残っている。
 御殿平から七曲がりと呼ばれる急な登城道が月山山頂へと一気に通じている。かつての軍用道で、石畳が往時を偲ばせる。途中には年中水の枯れることのない山吹井戸も残る。山の中から吹き出す井戸ということからこの名がある。
 七曲がりを登ること約15分ほどで三の丸跡に出る。二段に分かれた見事な石垣を眼前にす本丸跡からの眺望ると、急な山道を登ってきた疲れが吹き飛ぶ。
 三の丸跡から二の丸跡、本丸跡にかけては平坦な道で、一番奥まったところが本丸跡。本丸跡の奥に勝日高守神社がひっそりと建っている。大国主命を祀った神社で、尼子氏時代は代々城内のまもり神であった。
 本丸跡からの眺望は素晴らしく、広瀬の町並みや安来の町並み、さらに中海が一望でき、月山富田城の攻防の歴史に思いを馳せたい。
周辺案内  月山富田城からほど近いところに鷺の湯温泉がある。温泉の歴史は古く、戦国時代には月山富田城の尼子氏の御殿湯として賑わっていたという。
 鷺の湯温泉の前には足立美術館がある。足立美術館は横山大観コレクションをはじめとする近代日本画壇の巨匠たちの絵画を一堂に集め、特に横山大観の絵画はここでしか見られない名作ぞろい。また、1万3千坪の日本庭園は四季折々の美しい佇まいをみせている。
 奥出雲地方は良質な砂鉄の産地で、古代からタタラ製鉄法による玉鋼(たまはがね)の生産が盛んだったところ。この玉鋼の集散地として賑わったのが安来で、安来市にある和鋼博物館は玉鋼の製造に関する貴重な資料を展示しており、一度は訪れたい博物館である。

【安来市のホームページへ】

   


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