[PR]テレビ番組表
今夜の番組チェック

首 里 城
(しゅりぐすく)

琉球文化を今に伝える雄大な尚氏の王城

 所在地:沖縄県那覇市首里当蔵町
 別  称:中山城
 築城年:1350年(正平5年)頃
 築城者:中山王察渡
 形  式:平山城
 遺  構:石垣、石門
      復元城門・正殿・南殿・北殿

 地図 
正殿(復元)
歴 史  日本の南北朝時代から室町時代始めにかけて、沖縄は按司(あじ)と呼ばれた小豪族乱立の時代から北山・中山・南山の三国分立時代に入り、1350年(正平5年)頃に中山王(ちゅうざんおう)であった察渡(さっと)が首里城を築城した。
 1429年(永享元年)中山王尚巴志(しょうはし)によって三国が統一され琉球国となり、首里城は統一王朝(第一尚氏)の王城となった。その後、1470年(文明2年)政変が起きて第二尚氏の王朝となり、首里城の大改築に着工、第二尚氏三代の尚真王の時に完成した。
 琉球は独立王国として薩摩の島津氏や中国の明とも交易していたが、1609年(慶長14年)薩摩初代藩主島津家久は尚氏から来貢が無いことを理由に、兵3千人を軍船に乗せて突如として琉球に上陸させ、首里城を攻め落とした。
 徳川家康は島津家久による琉球の支配を認めたので、これ以後、江戸時代を通じて琉球は島津家の支配化に入ったが、外見的には尚王朝の存続は許され、首里城は尚氏代々の王城として明治維新を迎えた。
 明治新政府は段階的に琉球王国を沖縄県へと移行させ、明治12年、第二尚氏十九代尚泰(しょうたい)は首里城を明け渡し、ついに琉球王国は崩壊した。その後も首里城は旧日本陸軍の駐屯地として保存されていたが、太平洋戦争末期、アメリカ軍の攻撃で完全に破壊されてしまった。
一口話  アジアの東に浮かぶ琉球王国は古くから中国をはじめアジア諸国と交易し、独自の文化を育てていった。16世紀には明の王から「武器によらず礼節をもって治められた国」と賞され、首里城には「守礼之邦」の額が掲げられた守礼之門が建てられたほどである。
 しかし、徳川幕府の時代となると、薩摩藩島津氏が突如として攻め入り、長らく戦闘とは無縁だった琉球王国はなすすべもなく薩摩藩の支配下に入った。。薩摩藩の狙いは日本との間では禁止されていた明との交易であった。形式的には琉球王国とはいうものの、悪名高き人頭税が課せられるなど、明治に至るまで琉球王国は薩摩藩によって過酷な収奪が行なわれた。明との交易が仇となった琉球王国の悲劇といえる。
見どころ  首里城は那覇市の北東、標高130mの丘陵上に構築された城郭で、最高所には本丸にあたる内城を設け、その周囲に外郭を構え、内郭には宮殿などの建物、外郭には諸官庁を設けていた。
 首里城跡は国の史跡で、琉球王朝時代に築かれ、戦災で焼守礼の門け残った城壁や石造物・庭園は、琉球文化を今に伝える貴重な遺構として平成13年に世界文化遺産に指定された。
 完全に破壊されていた首里城跡も昭和33年に守礼門がいちはやく復元、平成4年には正殿・南殿・北殿や多くの門が復元され、首里城公園として多くの観光客で賑わっている。
 守礼門は首里城のシンボル的存在で、二層の屋根の間には「守礼之邦」の額が掲げられ、中国建築と日本様式の影響がみられる首里城ならではの門である。
 復元された城内の建造物の多くは赤瓦の屋根で、鮮やかな朱塗りが施されている。特に正殿のある御庭(うなー)は四面を巨大な建物に囲まれ、圧倒される思いがする。しかし、南殿だけは朱塗りではなく、造りも日本風である。これは南殿が薩摩藩の役人の接待所を兼ねていたからだという。一方、北殿は明からの冊封使(さっぽうし)を接待する建物で、中国風建築である。
 正殿は琉球王朝の政務や儀式を執り行なっていた最も重要な建物で、内部は国王の玉座や王朝時代の美術工芸品、復元された国王の衣装や巨大な封印など、王朝時代の文化を伝える多くの資料が展示されている。
 首里城の正園比屋武御嶽石門(重要文化財)門にあたる歓会門、首里城第二の門である瑞泉門、第三の門である漏刻門、第四の門である広福門、正殿へ通じる最後の門である奉神門、外郭に設けられた木曳門など多くの門が復元されているが、なによりも見逃せないのは国の重要文化財で世界文化遺産にも指定された園比屋武御嶽石門(そのひやんうたきいしもん)である。
 この石門は第二尚氏三代の尚真王の時代(1519年頃)に築かれた門で、国王が外出の際に道中の安泰を祈願したり、琉球王朝の祭祀が執り行われた首里城内で最も重要な御嶽(聖地)であった。扉以外は琉球石灰岩や微粒砂岩を使用しながら、木造建築風に仕上げたデザインは見事というしかない。
 首里城公園内の最高所にある「西のアザナ」は王朝時代には物見台として使われていたところで、現在では展望台となっており、首里城公園内を見渡せば在りし日の首里城の雄大さがうかがえる。晴れていれば、はるか海の向こうに慶良間諸島を望むことができ、「島添アザナ」とも呼ばれている。
周辺案内  首里城公園を見学した後は琉球王国の栄華を今に伝える史跡を丹念に見て周りたい。
 首里城公園入口の近くにある玉陵は1501年(文亀元年)尚真王が築いた第二尚氏歴代の陵墓で、破風墓(庇のある家形の墓)が3基連なり、国の重要文化財で世界文化遺産にも登録された。墓の前には広々とした中庭があり、王家の威厳を今に伝えている。
 竜潭(りゅうたん)は1452年(享徳元年)中国の冊封使が尚巴志王にすすめて造らせた池で、かつては琉球随一の名勝であった。現在では公園となっているが、竜潭池とつながる円鑑池の中之島に架けられた天女橋は国の重要文化財に指定され、弁財天堂も復元されている。
 首里城から南西へ続く金城町の石畳道は尚真王の時代に整備されたもので、幸いにも戦火を免れた300mの石畳が往時の面影をとどめている。
 首里城から南へ1.5kmのところに識名園(しきなえん)がある。1799年(寛政11年)に造られた琉球王家最大の別邸の回遊式庭園で、中国の冊封使を接待するところとして使用されていた。池には2つの中島が浮かび、中国風のアーチ型石橋や六角堂が現存し、世界文化遺産に登録された。

【那覇市のホームページへ】