八 代 城
海陸の要衝の地に築かれた熊本城の支城
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| 石垣と堀 |
| 歴 史 | 天正15年(1587)豊臣秀吉による九州征伐後、 肥後南半国は小西行長に与えられ、天正17年(1589)小西行長は宇土城を築くとともに、重臣の小西美作に命じて八代の地に麦島城を築かせた。慶長5年(1600)関ケ原の合戦で西軍についた小西行長が処刑にされると、東軍の徳川家康方についた加藤清正が肥後一国を与えられ、熊本城を築くと同時に麦島城を修築。清正亡き後、後を継いで熊本城主となった加藤忠広(加藤清正の子)は重臣加藤正方を麦島城代とした。 麦島城は元和5年(1619)の大地震で大きな被害を蒙ったため、加藤忠広は麦島城の北岸の地に新しい城を築くことを徳川幕府に願い出て、元和の一国一城令にもかかわらず特別に許可された。加藤忠広は重臣の加藤正方に命じて八代城の築城を開始し、元和8年(1622)にほぼ完成した 。寛永9年(1632)徳川幕府の豊臣恩顧の大名取り潰し政策で加藤忠広は謀反の疑いをかけられ、出羽庄内城主酒井忠勝にお預けの身となると、豊後小倉より細川忠利が移封されて熊本城主となり、忠利の父で隠居の身であった細川忠興(三斉)が豊前中津より八代城へ入城した。 正保2年(1645)細川忠興が死去すると、時の熊本藩主細川光尚は筆頭家老の松井康之の子である興長を八代城主として3万石を与えた。松井氏は徳川幕府からも城主としての待遇を受け、以後、八代城は松井氏10代の居城として明治維新を迎える。 |
| 一口話 | 元和元年(1615)の一国一城令にもかかわらず、熊本城主加藤忠広に熊本城の支城として八代城の築城を許可したのは徳川幕府としては異例のこと。これは八代が薩摩の島津氏を押さえるための陸海の要衝の地であったためである。 その加藤氏も広島城主福島正則と同様に改易。肥後一国は徳川幕府が信頼する細川氏に与えられ、新たに八代城主となった松井氏を正式に城主として認知した。徳川幕府にとって薩摩島津氏はよほど警戒する対象だったことがわかる。 |
| 見どころ | 八代城は球磨川が海にそそぐ河口の三角州に築かれた平城 であった。城の北側は湿田地帯で、南側は前川と球磨川の大河が流れ、西側は八代海に面し、東側だけが陸続きになっていた。本丸を中心に二の丸・三の丸などを配し、複雑に入り組んだ堀や高石垣を築くなど、要害堅固な城で、本丸には小天守をともなった五層の天守が築かれていた。 満々と水を湛える幅広い堀で囲まれた本丸跡には明治16年に八代宮が建立され、南北朝時代に南朝方の征西将軍であった懐良(かねなが)親王と良成(よしなり)親王を祀っている。このことからも南北朝時代には八代が九州の南朝にとって重要な地であったことが 推測できる。八代城跡は全国でも珍しく、今では八代宮の所有地となり、良く整備されている。八代城跡には築城当時の建造物は何一つ残っていないが、大小の天守台や美しい堀と見事な石垣、それに城跡への入口である表門跡と埋み門跡の枡形が残り、二の門跡の古絵図を参考にしながら散策すると、往時の八代城の姿が偲ばれる 本丸跡を取り囲む石垣の上は自由に歩くことができるが、手すりがないのでスリル満天。大天守台の上から見下ろす城跡はなかなかのもの。 |
| 周辺案内 | 八代には歴史を刻む史跡が残っている。まず、松浜軒(しょうひんけん)は元禄元年(1688)八代城主松井直之が母のために建てた茶室で、5月にはカキツバタ、6月には肥後菖蒲が咲き乱れる。 春光寺は八代城主松井氏の菩提寺で、宮本武蔵のよき後援者であった初代松井興長をはじめ、歴代城主の墓がある。静寂な雰囲気に惹かれ、俳人や茶人が訪れる寺として有名。 懐良親王陵は楠や桧、杉の老樹が森の様に生い茂り、静寂そのもの。南朝の征西将軍として九州の地で戦い、55歳で亡くなった懐良親王の墓とともに菩提寺としての悟真寺も建立されている。 |