
臼 杵 城
キリシタン大名大友宗麟の栄華の跡
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| 現存畳櫓 |
| 歴 史 | 臼杵城は臼杵湾に浮かぶ周囲4kmの丹生島に永 禄5年(1562)大友宗麟が着工。翌永禄6年(1563)に完成すると、大友宗麟はこれまで大友氏代々の居城であった府内城(大分城)から臼杵城に本拠を移した。臼杵城は南蛮貿易の基地として最適な地であった。この城で 大友宗麟は最盛期を迎え、豊前・豊後・筑前・筑後・肥前・肥後の6ヶ国と日向・伊予の一部を支配する大大名となった。しかし、天正6年(1578)大友宗麟が日向に出兵して島津義久・義弘・家久の連合軍に大敗して以降、大友氏の勢力は急速に衰え、天正14年(1586)島津氏の大軍によって臼杵城は落城し、翌天正15年(1587)戦国時代の九州の雄といわれたキリシタン大名大友宗麟は津久見で病死、波乱の生涯を終えた。 大友宗麟の後を継いだ大友義 統(よしむね)が文禄の役(豊臣秀吉の朝鮮出兵)の際、敵の大軍来襲の報せに前線より逃走したことから秀吉によって改易されると、文禄2年(1593)臼杵城には石田三成の妹婿福原直高が6万石で入城した。福原直高が府内城に居城を移すと、太田一吉が3万5千石で 臼杵城主となるが、慶長5年(1600)の関ケ原の合戦に際して、太田一吉は石田三成方の西軍についたため臼杵城を追われ、同年稲葉貞通が郡上八幡から5万石で入封。稲葉氏は2代にわたって兵火で荒廃していた臼杵城と城下町を修復し、以後、臼杵城は稲葉氏15代の居城として明治維新を迎える。 なお、明治10年(1877)西南の役では、臼杵士族隊と西郷隆盛軍の間で臼杵城最後の戦いが始まったが、兵器に劣る臼杵隊は各地で敗れ、臼杵城は一日で落城した。 |
| 一口話 | 大友宗麟が九州で強大な勢力となったのは臼杵城を基地としてポルトガルなどと活発に交易し、この交易を通じて、当事としては新兵器である鉄砲、大砲、それに火薬類を豊富に手に入れることが出来たからである。 中でも、ポルトガルから入手して臼杵城に備え付けられた大砲は「国崩」と呼ばれ、近隣の武将に恐れられた。島津の大軍が臼杵城に攻め寄せた時、この大砲は大音響を発して敵陣に命中。多数の死傷者を出して、さしもの島津軍もたじろいだ。我が国の実戦で使用された最初の大砲である。 |
| 見どころ | 臼杵城は臼杵湾に浮かぶ丹生島に築城された城で、江戸時代には三層四階の天守と31基の櫓が築かれていた。しかし、現在では臼杵城跡の周囲は完全に埋め立てられ、かつてこの城が海城であったことは本丸跡から望む臼杵湾から想像するほかはない。現在、臼杵城跡は本丸跡と二の丸跡が臼杵公園となっている。二の丸跡南西隅に畳櫓、本丸跡南東隅に卯寅口門脇櫓が現存し、 古風な櫓ながら往時の臼杵城の姿をとどめている。卯寅口門脇櫓のすぐ側に丑寅稲荷神社が建っているが、この神社は大友宗麟が築城に際して、丑寅口が城中の鬼門にあたるため城の地主神・丹生島明神を祀ったのがはじまり。 二の丸跡に築かれていた井楼櫓跡の石垣はなかなか見ごたえがあり、二の丸跡への入口に、平成13年に大門櫓が復元された。 二の丸跡と本丸跡の間には深い空堀と石垣が残り、二の丸跡には大友宗麟のレプリカと青銅製の大砲「国崩」の複製があり、大友宗麟の栄華の跡が偲ばれる。 |
| 周辺案内 | 臼杵といえば誰しもが国宝の臼杵石仏群を訪れる。 平安時代から鎌倉時代にかけて山肌に刻まれた59体もの磨崖仏は見事というほかはない。これらは地名からホキ石仏第一群、ホキ石仏第二群、山王山石仏群、古園石仏群の4群に分けられ、誰が刻んだか不明だが、いずれも精魂を込められた精緻な石仏群である。 4群の石仏群をじっくりと見てまわるには1時間以上を要するが、中でもホキ石仏第二群の阿弥陀三尊像、山王山石仏群の如来像、古園石仏群の大日如来像は傑作で、いつまで見ていても見飽きることのない。野上弥生子文学記念館も見逃せない。彼女は明治18年に臼杵で生まれ、99歳まで長寿をまっとうした作家。その生家である小手川酒造の一角を改築して記念館とし、野上弥生子の遺品や貴重な資料が展示されている。 |