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高 鍋 城

平安時代末期に築かれ秋月氏が大修築した城

 所在地:宮崎県児湯郡高鍋町
 別  称:財部城、舞鶴城
 築城年:平安時代末期、寛文9年(1669)
 築城者:土持氏、秋月種信
 形  式:平山城
 遺  構:石垣、土塁、堀切、堀

 地図 
本丸政庁跡
歴 史  高鍋城はかつて財部(たからべ)城と呼ばれ、堀平安時代末期に宇佐八幡宮の神官の出で、日向の豪族であった土持氏によって築かれたといわれる。
 土持氏は室町時代までこの地に勢力を張ったが、長禄元年(1457)日向に勢力を伸ばしてきた伊東氏に敗れ、伊東氏の所領となり、財部城は伊東氏48城の一つとして、伊東氏の武将落合民部が城主となる。
 その伊東氏も天正5年(1577)薩摩島津氏との戦いに敗れ、財部城は島津氏の所有となった。
 天正15年(1587)岩坂門跡豊臣秀吉による九州平定の後、秀吉の軍門に降った筑前秋月城主の名族秋月氏十二代種実が3万石で日向に転封。
 秋月種実は当初櫛間城(宮崎県串間市)に入城したが、種実の子種長は財部城に移って初代藩主となる。寛文9年(1669)三代藩主秋月種信は徳川幕府の許可を得て中世からの城であった財部城を大修築。延宝元年(1673)に完成し、近世城郭に生まれ変わり、城の名も高鍋城と改めた。
 以後、高鍋城は秋月種長から数えて秋月氏10代3万石の居城として明治維新を迎える。
一口話  秋月氏はもともと筑前で36万石を領して代々文官や学者を生んだ家柄である。高鍋藩はこの伝統を受け継ぎ、中でも七代藩主秋月種茂は安永7年(1778)藩校明倫堂を開校、庶民の教育に力を注ぐとともに財政にも明るかった。
 その秋月種茂の弟松三郎は9歳の時に米沢上杉家の養子となる。この松三郎こそ、後に米沢藩の財政危機を見事に立て直し、江戸時代きっての名君とうたわれた上杉鷹山である。
見どころ  高鍋城は標高74mの小丘陵に築かれ、丘の中腹に本丸、山上に残る土塁一段下った平地に二の丸、さらに下ったところに三の丸を配した縄張りで、丘陵上には三層櫓が築かれていた。
 その姿が羽ばたく鶴に似ていることから別名「舞鶴城」と呼ばれ、現在では城跡一帯が舞鶴公園となっている。
 二の丸への正門であった岩坂門跡の石垣は比較的良く残り、ここを上ると二の丸跡で、その一角に建つ高鍋町歴史総合大楠(国天然記念物)資料館には秋月氏の歴史資料や文化財のほか、昔の農村で使用されていた民具などが展示されている。
 二の丸跡に鎮座する舞鶴神社は秋月氏初代種長が筑前から移したといわれる古社で、境内には高さ35m、根回り10mもある樹齢500年という大楠がそびえ立ち、国の天然記念物。
 二の丸跡から石段を上って山上へ行く途中に残る石垣ゆくと本丸の正門であった長峰門跡を経て本丸跡に至る。政庁と奥御殿があったところで、今は広場となり、本丸政庁跡の標柱が立つのみ。
 本丸跡からさらに上ってゆくと、途中に曲輪跡とおぼしき跡がいくつかあり、崩れかかりながらも見事な石垣が部分的に残っている。
 山上には土塁や堀切も残り、往時の高鍋城の姿を今に伝えている。この丘陵上にかつて三層の櫓が築かれていた。また、三の丸跡の外側には約800mほど続く外堀も残っている。
周辺案内  高鍋藩秋月氏の家老職を務めた黒水家は家老屋敷とも呼ばれ、母屋は寄棟造りの茅葺きで、高鍋町にとっては貴重な文化財。本格的な書院を設けた風格ある上の間がある。
 大時計台はソーラー時計としては日本一。「時間の励行日本一」運動を展開し、高鍋町のシンボルとなっている。
 高鍋町の郊外には高鍋湿原がある。湿原には散策路が整備され、自生する植物を見ることができる。特に希少種となっているサギソウやモウセンゴケをはじめ、ノハナショウブなどの群落が見もの。

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