
佐 伯 城
毛利高政が11年がかりで築城した近世の山城
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地図 ![]() |
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| 櫓門 |
| 歴 史 | 佐伯城は慶長6年(1601)豊後日田の隈城から移封された毛利高政が翌慶長7年(1602)から11年の歳月を費やして、標高140mの八幡山に築城した近世の山城であった。 毛利高政は豊臣秀吉子飼いの武将で、もともと森を姓としていた。ところが天正10年(1582)秀吉による中国攻めの最中、本能寺の変で織田信長が凶刃に倒れたため、秀吉は中国の毛利氏と急遽和議を結んで、森高政を毛利方への人質とした。 高政はこれを機に毛利と姓を改め、大坂城の築城に従事、文禄・慶長の役(秀吉による朝鮮出兵)では対馬に城を築いて軍監を務め、慶長元年(1596)には豊後日田2万石の大名となり、公田8万石の代官も兼ねて隈城に五層の天守を築くなど威勢を張った。 しかし、毛利高政は慶長5年(1600)の関ヶ原の合戦で石田三成方の西軍に属したため、徳川家康によって佐伯2万石へ転封された。以後、佐伯城は毛利氏12代の居城として明治維新を迎える。 なお、戦乱の時代も去った寛永14年(1637)毛利氏三代高尚は八幡山麓の三の丸に居館を移したため、佐伯城は山城としての役目を終えることになる。 |
| 一口話 | 山頂の天守台には明治の文豪国木田独歩の石碑が建っている。これは独歩の名作『春の鳥』が佐伯城跡を舞台にしたことを記念したもの。 国木田独歩は明治26年に佐伯の中学校教師として赴任、こよなくこの山城を愛し、散策しながら『春の鳥』の構想を練ったという。 |
| 見どころ | 佐伯城は番匠川の河口に近い標高140mの八幡山上に累々と野面積み(自然石)の石垣をめぐらし、本丸と本丸外曲輪には三層の天守を中心に二重櫓、平櫓、楼門、冠門などが築かれていた。さらに尾根に沿って二の丸や西出丸・北出丸・捨曲輪を配した山城で、2万石という小大名の居城としては誠に堂々たるもので、山城全体 が舞鶴の姿に似ていたので「鶴ヶ城」とも呼ばれていた。現在、山城の石垣はほぼ完全な形で残り、この石垣と本丸跡・二の丸跡・出丸跡などの縄張りを見れば、佐伯城が実戦本位の城だったことが実感できる。本来の登城道は山頂まで曲がりくねった険しい山道で、昼なお暗い杉林が続くが、車が通れる「独歩碑の道」と呼ばれる登城道があるので、是非、山頂の本丸跡まで登ってみたい。 山麓の三の丸跡には佐伯城の貴重な遺構として櫓門が現存している。三の丸御殿の正門で、小振りながらも佐伯藩の質実剛健な気風を感じさせる。 城主の居館は現在、公民館として現代風に改造されているが、瓦屋根や花頭窓のある玄関などに城主の館だった風格を一部に残している。 |
| 周辺案内 | 佐伯城跡大手前から八幡山麓に沿って養賢寺まで続く通りは「歴史と文学の道」と呼ばれ、数軒の武家屋敷が残り、日本の道百選にも選ばれている格好の散策路である。 古の面影を残すこの散策路には「汲心亭」という茶室もあるので、一服すれば風雅な心地になる。この道の一角には国木田独歩が下宿していた旧坂本家住宅が往時の姿のまま残っている。 佐伯藩の菩提寺、養賢寺は現在でも多くの僧が厳しい修行を続けている臨済宗の禅寺で、裏手には毛利家歴代藩主の見事な五輪の塔が静かに佇んでいる。境内の見学は修行寺のため要許可。 |