
熊 本 城
石垣が見事な加藤清正が築いた名城
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| 復元天守 |
| 歴 史 | 室町時代から戦国時代にかけて熊本の地は「隈本」と呼ばれていた。 現在の熊本城がある茶臼山には古来からの名族である菊地氏一族の出田秀信が室町時代に千葉城を築き、茶臼山の南麓には菊地氏に属した鹿子木親員が隈本城を築いていた。戦国時代に入って鹿子木親員の流れを汲む城久基は薩摩の島津氏の配下に入ったが、天正15年(1587)豊臣秀吉による九州征伐後、秀吉の軍門に降った越中富山城主佐々成政(織田信長の重臣)が肥後一国を与えられ隈本城主となった。しかし、佐々成政の強引な領民政策に肥後国人衆が反発して一揆が起こり、成政はその責任を問われ切腹させられる。 翌天正16年(1588)肥後国は二分され、南半国は宇土城に入った小西行長に、北半国は加藤清正に与えられ、清正は隈本城主となった。加藤清正27歳の時のことである。慶長5年(1600)の関ケ原の合戦では加藤清正は東軍、小西行長は西軍についたため、清正は宇土城を攻め落とし、その戦功で肥後一国52万石の大大名となった。 翌慶長6年(1601)加藤清正は千葉城・隈本城を中心にして茶臼山に大規模な築城工事に着工。築城の名人といわれた清正独特の縄張りで、7年の 歳月を費やして茶臼山全体を要塞化した新城を築き上げ、城の名も「隈」という字を嫌って「熊本城」と改めた。加藤清正は慶長16年(1611)京都の二条城で徳川家康と豊臣秀頼の会見を無事に終わらせ、大坂城から帰国の途中に病にかかり熊本城内で50歳の生涯を閉じた。清正の子加藤忠広が跡を継いだが、寛永9年(1632)徳川幕府の豊臣恩顧の大名取り潰し政策で謀反の疑いをかけられ、忠広は出羽庄内城主酒井忠勝にお預けの身となる。 加藤氏改易の後、豊前小倉城主細川忠利が肥後54万石の太守として熊本城主となり、忠利の父で隠居の身の細川 三斉(忠興)も肥後八代城に移った。徳川幕府は強大な外様大名である薩摩の島津氏の押さえとして親徳川の細川氏を熊本に転封したもので、細川忠利は松井・米田・有吉の三家を世襲家老として熊本藩の体制を固めた。以後、熊本城は細川氏11代の居城として明治維新を迎える。 明治10年に西郷隆盛が引き起こした西南戦争に際して、熊本鎮台司令官の谷干城(たてき)以下3400名が守る熊本城を薩摩軍1万3千名が攻撃するが、落城には至らず撤退した。加藤清正が築いた熊本城は近代戦争にも耐えうる要害堅固な城であることを世に知らしめたが、この西南戦争で天守以下多くの建造物が焼失してしまった。 |
| 一口話 | 剣一筋に生き、二刀流を編み出した宮本武蔵は晩年の5年間、熊本藩主細川忠利に迎えられ、細川家の客分となった。宮本武蔵の残した晩年の水墨画は素晴らしいものがある。病になった宮本武蔵は熊本城を離れて山中でその生涯を終わろうとしたが、細川家に呼び戻され大往生を遂げた。熊本藩によるその葬儀は盛大なものであったといわれている。時に武蔵62歳。 宮本武蔵が書いた兵法の書『五輪書』は処世訓ともいえ、現在でも多くの人が座右の書として愛読している。熊本を訪れてまず頭に浮かぶのは加藤清正と宮本武蔵である。 |
| 見どころ | 熊本城は国の特別史跡で、名古屋城、大坂城とともに日本三名城の一つ。宇土櫓など13の貴重な櫓や門が残り、いずれも国の重要文化財に指定され、九州隋一の名城といえよう。まず、熊本城を訪れると平御櫓(復元)から馬具櫓(復元)まで、坪井川に沿って一直線に築かれた全長242mの長塀(重要文化財)に圧倒される。国内の城郭では最長の長さを誇り、高さ約6mの石垣の上に築かれたもので、黒の下見板と白壁のコントラストが美しい。長塀の下には芝生が植えられ、坪井川沿いに散策すれば実に心地よい。 長塀の西側に復元された馬具櫓を眺めながら行幸坂を登ってゆくと、右手に備前堀が残っている。坪井川を天然の堀としていたため、熊本城に残る唯一の水堀。 城内に入る前に北大手門跡を通って北に残る監物櫓(重要文化財)を見ておきたい。車道から見上げるしかないが、すぐ側に残る百間石垣とともに城の北側を守る重要な櫓であった。監物櫓の南に埋門跡が残る。有事の際には百間石垣の東側を固める重要な櫓門であったが、今では冠木形式の門が建てられている。 熊本城北の加藤清正を祀る加藤神社から眺める宇土櫓(重要文化財)は一幅の絵画をみるようだ。空堀の上に築かれた高石垣は反り返るような石組みとあいまって見事というしかない。三層五階の宇土櫓は第三の天守ともいわれ、たるみのない屋根、直線的な破風など実に優雅で 古風な櫓である。小西行長が築いた宇土城の天守を移築したとの説もあったが、解体修理の結果、現在ではその説は否定されている。城内には頬当御門から入城するのが一般的だが、備前堀南側の櫨方門(移築)から竹の丸跡に入りたい。長塀の北側が竹の丸跡にあたり、ここから眺める高石垣と復元大天守は見ごたえがある。自然の地形を巧みに利用して幾重にも築かれた石垣は独特の美をかもしだしている。 竹の丸跡から飯田丸跡への登城道は二重に折れ曲がった虎口をなし、その中央にある独立した五階櫓跡の石垣もまた見事。 飯田丸跡に至ると「二様の石垣」が見るものの目を奪う。隅が2ヶ所あり、両方の石垣の反り方が違っている。東側はそのゆるやかなカーブと石組みから加藤清正時代のもの、西側は細川氏時代のものといわれているが、このような珍しい石組みは熊本城独特のもの。 飯田丸跡から眺める天守も絵になる風景で、ここから本丸跡に至るのが普通だが、月見櫓跡の石垣を見ながら重要文化財の櫓群が残る東竹の丸跡に行くのがおすすめ。西南戦争で焼失を免れた貴重な櫓群で、南から田子櫓・七間櫓・十四間櫓・四間櫓、少し間隔を置いて源之進櫓(いずれも重要文化財)が建ち並ぶ様は見ごたえがあり、時の絶つのも忘れてしまうようだ。 源之進櫓から少し北に行くと不開門(あかずのもん・重要文化財)が残る。城の東北に位置し、不浄な門として通常は開けられなかったのでこの名がついた。 不開門を出ると見事な高石垣の上に平櫓(重要文化財)が建っているが、東側の五間櫓・北十八間櫓・東十八間櫓と高石垣は圧巻。 裾を緩やかに広げた独特の勾配を持つこ の高石垣は、いざ登ろうとすると石垣の上部が頭にかぶさってくるような感覚に陥る。これは加藤清正流「三日月石垣」、または「武者返し」とも呼ばれ、見飽きることは無い。この石垣に限らず、城内の随所に残る高石垣は三日月流で、熊本城の最大の見どころ。このあたりは小公園となっており、散策には絶好の場所。長塀東側に連なる平御櫓(復元)、高石垣の上に建つ東十八間櫓や北十八間櫓などをゆっくりと見学したい。 本丸跡には三層六階の大天守と二層四階の小天守が昭和35年に復元され、無骨ながら華麗な姿を見せている。天守内部には熊本藩主ゆかりの品々や、西南戦争に関する資料などが展示されており興味深い。 天守入口の前に深さ約40mの井戸が残っている。加藤清正は「文禄・慶長の役(秀吉による朝鮮出兵)」の際、明・朝鮮連合軍相手に「泥水をすすり、死馬の肉を食らう」という苦しい籠城戦を強いられ、その経験を活かして城内のいたるところに120余の水量豊かな井戸を掘っていた。現在もなお、17の井戸が残っている。天守西側に残る箱型の石組みをした地図石はめずらしい遺構。切り石の組み合わせで美しく構成されており、古くから地図石と呼ばれてきた。 宇土櫓の内部は是非見ておきたい。一階には武者走りをめぐらした主室もあり、内部は急階段の連続だが、 最上階から大小天守を眺めると無性にシャッターを押したくなる。現在、熊本市では築城400年にあたる平成19年を目処に、飯田丸五階櫓、西出丸跡に未申櫓、奉行丸長塀、元太鼓櫓、西出丸長塀、戌亥櫓、さらには本丸御殿の復元工事を進めている。 平成11年の台風で大きな被害を受けた西大手櫓門(城内で最も格式の高い城門で昭和56年復元)の再建工事にも着手。平成14年には南大手櫓門が復元されたが、すべての工事が完成すれば、さぞや壮大な城郭になるであろう。 加藤清正が精魂を傾けて築城し、細川忠利が整備した城だけに、もう一度訪れる価値のある名城といえよう。 |
| 周辺案内 | 熊本城の北西に加藤清正の墓所である本妙寺がある。桜並木の参道の右手に加藤清正の父清忠を祀る本堂、176段の急な石段を登りつめると清正を祀る浄池廟がある。「天守と同じ高さに」との清正の遺言通り、熊本城の天守と同じ高さにあるので眺めが良く、さらに登ると熊本市街を見下ろすように槍を手にした加藤清正の銅像が建っている。 水前寺成趣園は熊本城とともに熊本市の観光名所として多くの人々が訪れる名園である。細川忠利が水前寺を建立し、細川家三代藩主綱利の時に庭園も完成した。中央部の池には阿蘇山からの伏流水が引かれ、その池を海に見立てて東海道53次を表現している。池のほとりには「古今伝授の間」と呼ばれる茅葺の茶室が建っている。細川忠利の祖父細川幽斎が古今和歌集に関する故事や解釈を時の宮様に伝授した茶室で、京都から移築、復元されたものだが、この茶室で接待に預かりたい。 宮本武蔵の肖像画や武蔵直筆の書画などを展示している島田美術館も見逃せない。宮本武蔵関連のコレクションの他、織田信長・豊臣秀吉・徳川家康をはじめ、加藤清正・細川忠利の書状など貴重な資料も数多く展示されている。 |