鹿 児 島 城
百を越す外城を設けた九州の雄島津氏の本城
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| 石垣と堀 |
| 歴 史 | 島津氏初代忠久は建久8年(1197)鎌倉幕府を開いた源頼朝によって、薩摩・大隅・日向三国の守護職に任じられた。以後、島津氏は南九州を拠点として一大勢力を築き上げてきた。 戦国時代に入ると、時の島津氏十六代当主義久は豊後の名門大友氏や肥前の名門龍造寺氏を攻め立てるなど北九州にまで勢力を伸ばしたが、天正15年(1587)豊臣秀吉による九州征伐では、秀吉方の大軍には抗すべくも無く、島津義久はすばやく剃髪して降伏。このため旧領を安堵された。 慶長5年(1600)関ケ原の合戦に際して、島津義久と家督を継いだ島津義弘(義久の弟)は西軍に属したが、合戦には参加せず、西軍の敗北が決定的になった時、徳川家康軍の目の前を駆け抜けて本国に引き揚げた。これが有名な島津の「敵中突破」である。 従来、島津氏は領内を転々として本拠を構えていたが、慶長7年(1602)島津義弘の後を継いだ島津家久(義弘の子)が島津氏の本城として鶴丸城(鹿児島城)の築城工事に着工、慶長9年(1604)に完成した。 鹿児島城は77万石の大名の居城としては天守や 重層櫓などは築かれず、城山を天然の要塞として麓に本丸御殿を設けただけの小規模なものであった。これは徳川幕府に対して恭順の意を表わすためだったといわれている。ただ、薩摩島津藩は領内に郷を単位として百を越す外城(とじょう)を築き、領内全体で防御を固めるという、全国でも例の無い体制を整えていた。元和元年(1615)の一国一城令によって外城の建物は形式的に取り壊されたが、要害としての外城は「麓」と称して明治維新まで存続することになる。「麓」の多くは山を巧みに利用し、その下に屋敷を設けて集落を形成していた。 鹿児島城は島津家久から数えて島津氏12代の居城として明治維新を迎えたが、鎌倉時代当初から同じ領国を支配し続けた例はほとんどない。丸に十の字の島津氏の家紋は現在でも各地に見られるほど有名である。 薩摩藩が歴史に再び大きく登場するのは幕末になってからである。西郷隆盛や大久保利通らの逸材を生み出し、土佐の坂本竜馬の斡旋で長州藩と同盟を結び、明治元年(1868)錦の御旗を掲げて鳥羽・伏見の戦いを皮切りとした戊辰戦争で徳川幕府軍を倒して、明治新政府の中核となった。 明治10年、明治新政府に不満を抱く薩摩の旧士族たちは西郷隆盛を担ぎ上げて西南戦争を引き起こした。熊本の田原坂で薩摩軍は明治新政府軍に大敗し、最後は城山に立て籠もったが、力尽きて西郷隆盛以下全員が自刃した史実は歴史の皮肉というしかない。 |
| 一口話 | 関ケ原の合戦に際して、島津軍は徳川家康軍の真っ只中を強行突破して命からがら薩摩に帰ったにもかかわらず、島津氏は77万石の所領を1石も削られることがなかった。これは島津義久の知略によるものである。 徳川家康は明との貿易を回復するため、関ケ原の合戦後すぐに明に使者を送った。ところが、家康が待ちに待った明からの返答を携えた船が島津領内で海賊に襲われるという事件が起こった。この事件の犯人として島津義久は一人の商人を処刑したが、実はその商人は島津家御用商人の一人だった。 このことは島津家を取り潰すと、ことごとく海賊となって明との貿易を妨害するという、島津義久の徳川家康に対するメッセージで、さすがの家康も西軍に属した島津氏をどうすることもできなかった。狸親父といわれる家康を相手に、知略を尽くして島津家を守った島津義久の器量はあっぱれというほかはない。 |
| 見どころ | 鶴丸城(鹿児島城)は標高110mの城山南麓に築かれ、本丸御殿と堀を隔てた二の丸からなり、城郭というよりも「館城」と呼ぶのがふさわしい単純な縄張りであった。 現在、鹿児島城 跡は一部に残る石垣と堀が往時の姿を偲ばせるのみである。御殿のあった本丸跡には黎明館が建てられ、鹿児島県の古代から現在に至る日本でも独特の歴史と文化を学べる格好の博物館として興味深い。鹿児島城跡背後の城山は西南戦争の最後の激戦地として有名である。島津家久が鶴丸城を築いた当初から城山を城の背後を守る山として要塞化していたため、西郷隆盛も立て籠もることができた。 楠の原生林で覆われた城山一帯には遊歩道が整備され、山頂の展望台から錦江湾を隔てて望む桜島の雄姿は一幅の絵画の様に美しい。西郷隆盛が自刃した洞穴も残り、この地に立つ時、誰しも波乱に富んだ西郷隆盛の生涯に思いを馳せないではおられないだろう。 |
| 周辺案内 | 磯庭園の通称で知られる「仙厳園」は万治元年(1658)二代藩主島津光久が築いて以来、歴代島津藩主の別邸であった。錦江湾と桜島を借景とした庭園は実に美しく、書院造の磯御殿は説明を聞きながらじっくりと見学したい。園内にある尚古集成館は薩摩藩主島津氏に関する歴史資料を展示しているが、中でも幕末に活躍した洋式兵器などに興味を惹かれる。 磯庭園近くから船で桜島に渡り、大正3年の大噴火で流れ出した溶岩を眺めながら湯之平溶岩めぐり道路をドライブすれば、今なお噴煙を上げる桜島の大自然に圧倒されるだろう。 鹿児島市内から少し足を伸ばして江戸時代そのままの武家屋敷群が残る知覧を訪れたい。石垣の上に緑の生け垣を設けた美しい武家屋敷群が600m余り続くが、この内7つの屋敷が邸内の庭園を公開している。 知覧といえば太平洋戦争末期、本土最南端の特攻隊基地が置かれたところで、特攻作戦で亡くなった千人余の青年の遺品や写真が並ぶ「知覧特攻平和会館」は平和への祈りをなくしては見学できない。 |