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人 吉 城

鎌倉時代から続く相良氏35代の居城

 所在地:熊本県人吉市麓町
 別  称:繊月城、三日月城
 築城年:建久9年(1198)
 築城者:相良長頼
 形  式:平山城
 遺  構:石垣、土塁、郭跡
      復元多聞櫓・長塀・隅櫓

 地図 
御下門跡の石垣
歴 史  相良氏は遠江相良荘の出身で、相良氏六代長頼は復元多聞櫓と長塀源頼朝に仕え、建久9年(1198)九州人吉荘の地頭職に任命された。人吉荘には平頼盛の家臣である矢瀬主馬佑が城を構えていたが、相良長頼に反抗の態度をみせたため、長頼は矢瀬主馬佑を謀殺し、矢瀬氏の城域を拡張して人吉城を築いた。人吉城築城の時、三日月の紋様の入った奇石が出土したので繊月(せんげつ)城・三日月城とも呼ばれた。
 「武者返し」の石垣室町時代までの城は原城と呼ばれる人吉城跡東南の台地上に築かれ、空堀や堀切によって守られていた山城であった。
 室町時代に球磨郡を統一した相良氏はやがて芦北・八代・薩摩方面へと勢力を拡大して名だたる戦国大名にのし上がり、相良氏十九代義陽は人吉城の大改築工事に着工。
 しかし、天正15年(1587)豊臣秀吉による九州征伐によって、相良氏二十代長毎(な二の丸跡への虎口がつね)は球磨郡のみを支配することになり、以後、石高は2万2千石の大名となった。
 慶長5年(1600)の関ケ原の合戦では、相良長毎は当初、石田三成の西軍に加担したが、戦の途中で東軍に寝返ったため、徳川幕府の時代となっても2万2千石の本領を安堵された。
 相良氏の居城である人吉城は天正堀合門跡17年(1589)から何度も中断しながらも修築に修築を重ね、長い歳月を費やして寛永16年(1639)相良氏二十二代頼寛の時に完成した。
 人吉城は相良長毎を初代藩主として相良氏16代の居城として明治維新を迎えるが、鎌倉時代から数えると実に35代700年の歴史を秘めた城といえる。
 明治10年に西郷隆盛が引き起こした西南戦争では、人吉城は薩摩軍の根拠地となったためほとんどが破壊され、石垣だけが残るのみとなった。
一口話  初代藩主相良長毎は関ケ原の合戦に際して、当初は西軍に加担したことがあるので、徳川家康のご機嫌取りに汲々とし、慶長7年(1602)諸大名に先駆けて母親を人質として江戸城に差し出した。
 これが先例となって、諸大名も相良長毎に倣って江戸に屋敷を造って妻子を住まわせ、寛永12年(1635)に発布された「武家諸法度」の参勤交代制につながったという。
見どころ  復元多聞櫓人吉城は北側の球磨川、西側の胸川の清流を天然の堀とし、東側と南側は丘陵の断崖に堀をめぐらせた要害堅固な城であった。丘陵の山頂部に本丸、その西北に二の丸・三の丸・総曲輪を配し、本丸には天守は築かずに二層の護摩堂が建てられ、山麓に城主の居館が築かれていた。
 人吉城跡は国の史跡で、人吉城跡公園として整備され、平成元年に隅櫓、続いて平成5年、本丸跡への登城道大手門跡脇に多聞櫓とそれに続く長塀が復元された。
 多聞櫓は大手門の脇を固めるために建てられた長屋風の櫓で、内部は資料館になっていて、相良氏と人吉城の歴史資料や、在りし日の人吉城の模型が展示されている。
 大手門周辺は城の防備に重要な場所であるので、番所を置いて重臣の屋敷を配置して戦時に備えていた。江戸時代後期には鍵形の母屋を中心に土蔵・泉二の丸跡の石垣水・井戸などを配した家老の渋谷三郎左衛門の屋敷があり、今では礎石でその跡が示されている。
 隅櫓は胸川が球磨川に合流する人吉城北西隅の要所に建てられた一層の櫓で、江戸時代後期には漆の貯蔵庫として使われていた。
 大手門跡から城跡の中心部に向かって5分ほど歩いたところに堀合門跡がある。堀合門は城本丸跡主の住む御館北側入口に置かれた門で、門跡脇からは「武者返し」と呼ばれる石垣が続く。最上部が外側に張り出したこの石垣は幕末に導入された欧州の築城技術である槹出(はねだし)工法で築かれた人吉城独特の石垣で、必見の価値がある。
 堀合門跡に向かい合うように「水の手門跡」が残る。城内に入る4ヵ所の門の一つで、球磨川に面する水運のための門であったことからこの名がある。門外にあった舟着場から米蔵など多くの蔵への物資の搬入に利用されていた。球磨川に面して積まれた石垣は見事なもの左近の石
 水の手門跡近くに「左近の石」と呼ばれる巨石がある。重さ31トン、高さ2m余の安山岩のこの巨大な石は球磨川の中に置かれていた石で、昭和43年の河川改修工事の際に現在地に移された。かつては中州を橋台として2つの橋が架けられていたが、増水で橋が壊れることが多かったため、家老の村上左近の進言によって中州が流出しないように沈められた多数の巨岩の一つである。
水の手門跡 主郭部へは御下門跡から登って行く。御下門は「下の御門」とも呼ばれ、本丸・二の丸・三の丸への唯一の登城口に置かれた門で、堂々とした石垣は見ごたえがある。
 石段を登って行くと広場となっている三の丸跡。周囲の景観が広がり、虎口の古びた石垣が残る。三の丸跡から眺める二の丸跡の石垣はなかなかのもの。
 三の丸跡から枡方虎口を通って二の丸跡へ。二の丸跡は周囲を石垣で固め、枡形虎口と埋門形式の虎口が残っている。
 二の丸跡から石段を登れば丘復元隅櫓陵の頂上に築かれた本丸跡へたどり着く。本丸跡には土塁がめぐらされ、天守ではなく護摩堂が築かれていたという。
 大手門跡、水の手門跡、堀合門跡、御下門跡、そして三の丸跡・二の丸跡・本丸跡をじっくりと見て回れば、人吉城が丘陵の上に築かれた石垣造りの要害堅固な城だったことが実感できる。
 対岸から球磨川と胸川を隔てて人吉城跡を展望すれば、石垣と多聞櫓・長塀・隅櫓と清流のコントラストが美しく、2万2千石でしかなかった相良氏の居城としては石高以上の規模を誇る城だったことがうかがえる。
周辺案内  人吉を訪れれば人吉温泉で疲れを癒し、日本三大急流の一つに数えられる球磨川下りを楽しみたい。京都の保津川下りと同じくスリル満点である。
 球磨川下りの船着場の近くには球泉洞がある。九州最大の全長4.8kmの鍾乳洞で、往復1kmの一般コースでも石柱や石筍(せきじゅん)が見られるが、さらに奥の探検コースに行けば、3億年という大自然の営みに圧倒される。
 人吉からさらに山奥に入り、標高1000m級の山々に囲まれ、「五木の子守唄」で有名な日本の秘境五木村を訪れたい。哀調を帯びたメロディーが流れる五木の子守唄公園や、五木村の長い歴史を物語る資料を展示した五木村資料館などがある。

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