秋 月 城
鎌倉時代以来の名族秋月氏が築いた山城と里城
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地図 |
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| 長屋門 |
| 歴 史 | 鎌倉時代初期の建仁3年(1203)原田種雄が標高859m の古処山に山城を築くとともに麓に館を構え、秋月種雄と名を改め、以後代々秋月氏が居城した。戦国時代に入ると、秋月氏十二代種実は豊前・筑前・筑後で12郡を支配するまでに勢力を伸ばしたが、天正15年(1587)九州征伐に乗り出した豊臣秀吉の大軍によって秋月城は完 全に包囲され、秋月種実は秀吉の軍門に降った。秀吉は鎌倉時代から続く名族秋月氏の血が絶えるのを憂いて、秋月種実に日向高鍋3万石を与えた。これによって秋月城の古処山城は廃城となり、山麓の里城も荒廃した。 江戸時代に入って、寛永元年(1624)福岡城主黒田長政の三男黒田長興が5万石を与えられて秋月に分封。黒田長興は秋月氏の里城を古処山城の建物を移築するなどして大幅に改修した。これが今に残る秋月城跡で、秋月黒田藩は12代続いて明治維新を迎える。 |
| 一口話 | 九州征伐の軍を進める天下人豊臣秀吉に対して、秋月種実の重臣恵利暢尭は秀吉軍に対抗できる実力の無さを知って和平を進言した。しかし、種実はこれを聞き入れなかったため暢尭は切腹して諌言、妻子も殉死した。 やがて秀吉の大軍は秋月城を包囲する。ここに至って秋月種実は秀吉の陣に赴き、秋月家伝来の家宝の茶壷を献上して降伏を申し出た。秀吉はこの茶壷を気に入ったらしく、日向に移されたとはいえ、秋月氏は子々孫々存続することになる。 |
| 見どころ | 甘木市の中心街から北へおよそ7km、古処山の麓 にひっそりと佇む秋月城跡は小規模ながらも風情があり、一度は訪れてみたい。一直線に伸びる「杉の馬場」は情緒あふれる散策路。往時は杉の大木があったことからこの名があり、藩主のお成り道、また藩士たちの登城道で、時には馬術の稽古も行われたという。明治に なって桜が植えられたため「桜の馬場」とも呼ばれている。杉の馬場の突き当りが秋月城跡だが、城跡内は秋月中学校の敷地となっているため、杉の馬場に沿って見どころが散在している。 まず、藩校稽古館跡の石垣が目に付く。そのすぐ側に武家屋敷風の秋月郷土館があり、黒田家ゆかりの品々を展示しているが、この郷土館は戸波半九郎の屋敷跡を活用したもの。 ここから少し進むと堀に架かる瓦坂が見えてくる。瓦を縦に並べて土の流れを防ぐ仕組みで、 全国でも珍しい遺構といえよう。さらに進むと石垣にはさまれて重厚な長屋門が建っている。この門はかつては裏手門として使用され、現地に唯一残る貴重な建物で、櫓台の石垣とあいまって往時の面影を色濃く残している。 堀と石垣、さらに土塁の織り成す景観を眺めながら進むと黒門への登り口に至る。黒門はもともと秋月氏の本城であった 古処山城の搦手門だったが、秋月黒田藩の成立後、秋月城の大手門として現在の地に移され、緩やかな石段の上に建ち、古色蒼然とした趣きをかもし出している。今では藩祖を祀る垂裕神社の門となり、まさに黒門は中世からの秋月の歴史の歩みを見つめてきたといえる。背後に聳える古処山の山頂付近はツゲの原生林に覆われ、国の特別天然記念物に指定されている。古処山に登るのは容易ではないが、麓の秋月城跡からその美しい山容を眺めるだけでも爽快な気分になる。 |
| 周辺案内 | 秋月の城下町はそのほぼ全域が国の伝統的建造物群保存 地区に指定され、「秋月千軒」と称された往時の名残りを今にとどめている。特に野鳥川沿いの景観は四季折々に美しく、その風情はいつ訪れても心が休まる思いがする。 城下町入口に架かる目鏡橋も見落とせない。文化7年(1810)秋月黒田藩が長崎の目鏡橋を架設した石工を招いて建造したもの。全国でも珍しい花崗岩のアーチ橋で、完成当時はオランダ橋と呼ばれていた。 黒門から登って行くと藩祖黒田長興を祀る垂裕神社が建つ。十代藩主黒田長元が安政6年(1859)に建立したもので、紅葉の名所として知られている。 |