躑躅ヶ崎館
(つつじがさきやかた)
甲斐を支配した武田氏三代の城
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| 武田神社入口 |
| 歴 史 | 永正16年(1519)武田信玄の父・武田信虎が三方を山に囲まれる要衝の地に築き、武田氏三代63年にわたる居城となった。 天文10年(1541)武田信玄は父信虎を追放して甲斐国主となり、民政・領国の開発に努めるとともに、近隣諸国を攻略し、越後の上杉謙信と川中島で戦うこと数回。信玄は上洛を志し、織田信長と雌雄を決しようとして三河の野田城攻撃中に病に襲われ、天正元年(1573)に没する。 三代目の武田勝頼は、天正3年(1575)長篠の戦いで織田信長軍に敗れ、その後は勢力を取り戻すことなく、天正9年(1581)躑躅ヶ崎館から新府城に移るが、信長軍に撃破され、天正10年(1582)天目山の麓で自刃した。 武田氏滅亡後、躑躅ヶ崎館には徳川家康の家臣が入ったが、文禄3年(1594)甲府城が完成するともに廃城となった。 |
| 一口話 | 勇猛果敢な武田軍勢は、甲冑が赤色だったので「武田の赤備え」と呼ばれ、近隣の戦国大名から恐れられていた。徳川家康は武田信玄の戦略を高く評価し、武田氏滅亡後、武田氏の遺臣の多くを側近第一の猛将井伊直政の配下に置いた。 その後「武田の赤備え」は彦根井伊藩に受け継がれ、関が原の合戦や大坂の陣などの先陣争いは語り草ととなっている。 |
| 見どころ | 躑躅ヶ崎館跡は、現在は武田神社の境内になっている。大正8年に創建された神社で、武田信玄を祀っており、甲府の名所として多くの人が訪れる。社殿の東側には宝物殿があり、武具や軍配、軍旗など武田氏ゆかりの品々が納められている。![]() 「人は城、人は石垣、人は堀、情けは味方、仇は敵なり」という武田信玄の歌は有名で、信玄は城も石垣もなく小さな館で十分であったと一般には思われている。しかし、躑躅ヶ崎館は、背後には大規模な空堀があり、西曲輪の枡形、大手の馬出しなど堅固な城ともいうべきもので、館の北方にある要害山を詰の城とし、その他、支城や狼煙台などを各地に構築した。これらから、武田信玄は独特の戦略と現実性を兼ね備えた戦国武将であったことがわかる。 武田神社に参拝したからには、深い堀跡や西曲輪の跡、今は畑や住宅地となっている北曲輪、梅翁曲輪跡なども見て往時を偲びたい。 |
| 周辺案内 | 武田信玄の史跡として甲斐善光寺と甲府五山を訪れたい。 甲斐善光寺は、信濃善光寺が戦火で焼失することを恐れた武田信玄が、仏像・寺宝を甲府に移し、永禄元年(1558)に創建した浄土宗の寺。現在では山門と阿弥陀三尊像が国の重要文化財に指定されている。 また武田信玄は臨済禅に深く帰依し、京都五山や鎌倉五山にならって府中五山(甲府五山)を置いた。長禅寺がその筆頭寺で、信玄の母、大井夫人の菩提寺。信玄の弟が描いた大井夫人画像は国の重要文化財である。残りの四山は、仏殿が重要文化財の東光寺、武田信玄の正室・三条夫人の菩提寺である円光院、武田勝頼の墓がある法泉寺、松尾芭蕉の句碑のある能成寺である。 |