[PR]今日のニュースは
「Infoseek モバイル」

栃 尾 城

上杉謙信が青年期に活躍した山城

 所在地:新潟県長岡市栃尾表町
 別  称:舞鶴城
 築城年:南北朝時代末期
 築城者:芳賀氏
 形  式:山城
 遺  構:土塁、空堀

 地図 
本丸跡
歴 史  栃尾城は南北朝時代の末期に宇都宮党の芳賀氏が築いたが、やがて関東管領上杉氏が越後守護職となり、春日山城を本拠とする守護代長尾氏の支配するところとなった。
 天文5年(1536)春日山城で長尾為景(上杉謙信の父)が没すると、その子の長尾晴景が家督を継いだが、晴景は病弱であったため、守護職上杉氏の養子問題に絡む動乱をおさめきれず、越後内の豪族たちは各地で戦いに明け暮れた。その戦火が中越地方にも広がってきたため、晴景は春日山城下の林泉寺で修行の日々を送っていた弟長尾景虎(後の上杉謙信)を自分の名代として中越の要であった栃尾城に送り込んだ。時に天文12年(1543)、景虎はいまだ14歳の少年であった。
 近郷の豪族たちは景虎を若輩と侮って栃尾城に攻めかかったが、景虎は栃尾城代本庄実乃(さねより)らに支えられて四方から攻め寄せる敵をすべて撃退、「凶徒を討つことその数を知らず」というめざましい初陣を遂げた。また、17歳の時には兄晴景に背いた重臣黒田秀忠を討伐するなど、次第に名声を高めていった。
 諸将の間にはこの若き英主を守護代に擁立しようとする動きが広がり、兄の晴景と骨肉の争いになる。天文17年(1548)ついに景虎が守護代職を譲り受け、5年間にわたる栃尾城時代に別れを告げて春日山城主となる。やがて関東管領上杉憲政からその名跡を譲られ、41歳の時にその名も上杉謙信と改めた。
 慶長3年(1598)上杉氏の会津移封に伴い、本庄氏が城代を勤めていた栃尾城には春日山城主となった堀秀治配下の武将神子田氏が在城したが、慶長12年(1607)堀氏が春日山城を廃して平城の福島城に移ったのに伴い、栃尾城も廃城となった。
一口話  上杉謙信は7歳の時から栃尾城に入城するまでの7年間、春日山城下の林泉寺で仏道修行に努めた。このこともあって、若くして入道し、特に武神毘沙門天を信仰した。
 謙信はひとたび戦場に赴く時、春日山城内の毘沙門堂に一人籠もって戦勝を祈願し、「毘」の字の軍旗をはためかせて出陣。その旗印は降魔の軍として武田信玄をはじめ、戦国諸大名に恐れられた。
見どころ  栃尾城は織物の町栃尾の西郊にある標高227mの鶴城山に築かれた山城で、鶴が羽を広げたような姿をしていることから舞鶴城とも呼ばれていた。
 山頂の本丸を中心に北に松の丸・三の丸・五島丸、南に二の丸・中の丸・びわ丸・馬つなぎ場などを配した要害堅固な縄張りであった。それぞれの郭の間は空堀で独立させ、中でも松の丸跡と三の丸跡の間の空堀は栃尾城跡最大のもので、長さは200mにも及んでいる。山城にとって重要なものの一つである水は金銘泉と銀銘泉の二つがあり、夏でも枯れることがない。
 諏訪神社脇からの登り道は良く整備され、平坦なところもあるので登りやすい。山頂の本丸跡付近には狼煙台跡、空堀や土塁などが残っている。
 本丸跡に立てば眼下に刈谷田川、さらに山に囲まれて狭い袋状になった栃尾盆地が眺められ、栃尾城が天然の要害だったことが実感できる。また、山麓の秋葉公園には上杉謙信の銅像が建っている。
周辺案内  秋葉神社は火伏せの神様として江戸時代には近在はもとより、佐渡や上州、会津などからも参詣者が絶えず、神官が江戸に上り土産物として考案したのが栃尾名物「あぶらあげ」。芯までふっくらと揚げるために、低温と高温の二度揚げが特徴。現在、秋葉神社の境内は秋葉公園として、桜と紅葉の名所になっている。
 外山家は代々名字帯刀が許された庄屋で、明治初期に京都の庭師を呼んで池泉回遊式庭園を造らせた。雪深い栃尾の地に風雅な庭園があることは外山家の当時の財力を示すものといえるだろう。

【長岡市のホームページへ】