新 府 城
要害の地に築かれた武田氏最後の城
| 歴 史 | 武田勝頼は天正3年(1575)の長篠の合戦に大敗し、攻撃本位の躑躅ヶ崎館から防御本位の城を築かざるを得なくなる。天正8年(1580)に真田昌幸を普請奉行に任命し、天然の要害の地である七里岩台上に新府城を築く。翌天正9年2月に着工し同年12月には完成した。この間、領国中に総動員をかけ昼夜兼行の突貫工事を行なった。 しかし、時すでに遅く、天正10年(1582)2月、強力な織田・徳川連合軍の甲斐侵攻の前に勝ち目はないと見て、同年3月3日自ら城に火を放って放棄し、郡内の岩殿城へと目指すが力及ばず、途中、天目山で婦女子を含め主従もろとも自刃した。 これにより武田氏は滅亡し、以後、北条氏との甲斐争奪戦で新府城は徳川氏の拠点となったが、北条氏の滅亡とともに廃城となった。 |
| 一口話 | 悲運・薄幸の武将武田勝頼は、近松半二の名作『本朝二十四孝』(ほんちょうにじゅうしこう)の十種香の場では実に美しい姿で登場する。上杉謙信の息女、八重垣姫が勝頼に恋い焦がれる物語だが、源義経と同じく日本人の「判官びいき」で、江戸時代の人々は芝居の上では勝頼を美丈夫に仕立てたのであろう。この芝居は文楽でも歌舞伎でも人気狂言の一つとなっている。 |
| 見どころ | 新府城があった七里岩は釜無川の侵食によって出来た大絶壁であ った。堀・土塁・曲輪を全山に機能的に配置し、頂上部分に本丸を置いていた。七里岩台を見上げるだけでも天然の要害であったことがわかる。また、山麓には2ヶ所大きく張り出した曲輪の突出部が森として残っているが、この曲輪は強烈な横矢を防ぐための陣であった。これほど徹底して大きく飛び出した例はほとんど無く、これに連なる土塁・乾堀・望楼は新府城独特のものであった。 現在は国の史跡であり、韮崎市立公園として整備が進められ、史跡めぐりや憩いの場として多くの人が訪れている。 |
| 周辺案内 | 韮崎市では武田八幡宮と願成寺が有名である。 武田八幡宮は新羅三郎義光以来、甲斐源氏の崇敬が厚く、義光の曾孫信義は武田の里に居を構えて武田の太郎と名乗り、この神社を武田氏の氏神とした。時は流れ、天文10年(1541)武田信玄が甲斐を支配するようになると、本殿を再建した。この本殿は室町時代末期の特色を良く残し国の重要文化財に指定されている。 また願成寺は武田信義が菩提寺とした曹洞宗の寺院。木造阿弥陀如来及び両脇侍像は信義の寄進で国の重要文化財である。 |