村 上 城
堀や石垣が残る中世と近世の山城
![]() |
地図 ![]() |
|
| 本丸跡の石垣 |
| 歴 史 | 鎌倉時代に小泉荘と呼ばれたこの地に地頭として 赴任した本庄氏の子孫である本庄時長が16世紀初頭の室町時代に築城したのが村上城(本庄城)の始まりで、本庄時長、房長、繁長の三代にわたる居城となり、本庄房長は越後春日山城を本拠とする長尾氏に属した。本庄城は永正4年(1507)以降、60年間に3度にわたって城をめぐる攻防戦が行われたが、中でも永禄11年(1568)の戦い は激戦であった。上杉謙信に属していた時の城主本庄繁長は武田信玄の調略により反旗を翻したため、上杉謙信の軍勢に攻められ、要害堅固な本庄城に籠城するが、謙信に嫡子を人質に差し出して降伏した。 猛将で知られた本庄繁長も天正19年(1591)出羽山形城の最上義光の讒言で豊臣秀吉の勘気を買い蟄居の身となり、本庄城には春日元忠、大国但馬守が城代として任じられた。 慶長3年(1598)豊臣秀吉に よって上杉景勝が会津若松に移封されると、加賀小松から村上勝頼が12万石で入封し、城の大修築を行い、地名も村上と改めた。元和4年(1618)村上氏はお家騒動で改易となり、替わって越後長岡から堀直寄が10万石で村上城主となり、山上の曲輪を拡張して石垣を築くなど、中世の山城を新たな縄張りによって近世城郭 に築き直し、城下町も整備した。その堀氏も二代堀直定に嗣子がなく寛永19年(1642)にお家は断絶。その後、本多氏を経て慶安2年(1649)徳川譜代の松平直矩が播州姫路から15万石で入封。家臣の増加などに伴い、三層の天守を築くなど、城の改築を行った。 以後、榊原氏・本多氏・松平氏・間部氏・内藤氏と城主は頻繁に交替。享保5年(1720)駿河田中から内藤弌信(かずのぶ)が5万石で村上城主となり、村上城は内藤氏9代の居城として明治維新を迎える。 |
| 一口話 | 越後村上は姫路城からの左遷の印象が強い藩である。姫路城には西国大名の押さえとして徳川親藩や徳川四天王の末裔を配したものの、世継がいずれも幼少だったため姫路城から村上城に左遷されている。松平直矩は9歳、榊原正倫は3歳、本多忠孝は7歳で、姫路藩主からいずれも15万石で村上藩主へ転封された。 |
| 見どころ | 村上城は標高135mの臥牛山に築かれた山城で、 総構えの規模は南北1.4km、東西2.3km。山上には本丸・二の丸・三の丸が階段状に配され、西側山麓には城主の居館、東側には大小の曲輪が設けられていた。 村上城跡は地形を巧みに利用した戦国期の遺構と、新潟県下最大規模の江戸期の石垣が共存しているのが最大の特徴で、国の史跡に指定されている。近世城主の居館跡であった山麓から城への登り口に建てれていた一文字跡から七曲り道と呼ばれる登城道を15分ほど登って行くと四ツ御門跡の細長い石垣が目につく。 四ツ御門は三の丸への虎口にあたり、往時には居館・三の丸・二の丸・井戸へ通じる四つの 門を持つ特異な建物だったという。四ツ御門跡を過ぎるとすぐ左手が広々とした三の丸跡。四ツ御門跡から右手に登って行くと二の丸跡を経て本丸跡に至るが、平成18年10月現在 、三の丸跡と二の丸跡は石垣の修復工事が行われているため、立ち入り禁止となっている。四ツ御門跡の正面から、本庄氏が山腹に築いた中世山城の遺構をめぐりながら本丸跡下の埋門跡に至る散策コースが設けられているが、かなり深い谷底に降りて、再び登ることになり、足元に注意との表示があるほどで、それなりの装備が必要と思われる。 二の丸跡への虎口には見事な枡形を形成した御鐘門跡が残っている。迂回路をたどって本丸跡へ と向かうが、二の丸跡に築かれた出櫓跡の石垣と本丸跡の高石垣は工事用のシートが被されていたが、なかなか見ごたえがある。本丸跡下の平櫓跡や埋門跡から眺める本丸跡の石垣は見事なものだが、本丸跡直下の帯曲輪から見上げる天守台と本丸跡の石 垣の様は実に壮観。大きな枡形を形成した冠木門跡を上ると本丸跡で、一段高くなったところが天守台。本丸跡からの眺望は実に素晴らしく、日本海と村上市街、鮭の遡上で有名な三面川(みおもてがわ)が一望できる。 村上城跡は地元では「お城山」の名で親しまれ、春は桜、初夏は新緑、秋は紅葉、冬は雪化粧と、四季を通じて美しい自然が満喫できる。 |
| 周辺案内 | 皇太子妃雅子妃殿下の実家小和田家は村上 市の出身であるため、市では皇太子殿下とのご成婚を記念して「まいづる公園」を設立した。園内には雅子妃殿下の祖先・村上藩士の住宅であった旧嵩岡家住宅を移築、復元したほか、2棟の武家屋敷も復元されている。村上市は今でも城下町の風情を残しているが、中でも若林家住宅は築200年以上も経つ江戸時代の典型的な中級武士の住宅として国の重要文化財に指定されている。茅葺平屋建ての屋敷は東西方向の居室棟と、南北方向の座敷棟を接続した曲屋造りで、部屋割りが細かく、武家屋敷としての特色を良く今に残し、苔むした庭園には四季折々の風情がある。 |