松 代 城
(まつしろじょう)
千曲川を天然の堀とし三方を山に囲まれた要害堅固な城
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地図 ![]() |
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| 戌亥櫓台 |
| 歴 史 | 松代城は戦国時代には「海津城」と呼ばれ、 築城年代は定かではないが、北信濃に進出した武田信玄が永禄3年(1560)軍師の山本勘助に命じて築かせたものといわれ、武田二十四将の一人高坂弾正昌信を海 津城主とした。海津城は越後の上杉謙信の攻撃に備えて川中島の要の地に築かれた城で、川中島の合戦では、武田軍はこの海津城に集結。武田信玄と上杉謙信との間で繰り広げられた合戦の舞台となる。 天正10年(1582)武田信玄の跡を継いだ武田勝頼が織田信長によって滅ぼされると、信長配下の武将森長可(ながよし)が海津城主となった。しかし、同年6月に本能寺の変で信長が自刃すると、森長可は城を放棄し、海津城は越後春日山城主上杉景勝の支配するところとなり、 天正12年(1584)須田親親が城将となった。慶長3年(1598)豊臣秀吉によって上杉景勝が会津に移封されると、この地方は秀吉の直 轄地となり、田丸直昌が海津城主に任じられた。慶長5年(1600)豊臣家五大老筆頭であった徳川家康は田丸直昌を美濃岩村城に移封し、森長可の弟森忠政に川中島四郡13万7千石を与え海津城主とした。 慶長8年(1603)森忠政は美作津山に移り、替わって下総佐倉から徳川家康の六男松平忠輝が12万石で海津城主となる。 元和2年(1616)大坂の陣での不手際から松平忠輝は改易と なり、替わって家康の孫にあたる松平忠昌が常陸下妻から入封するが、元和4年(1618)松平忠昌が越後高田に移封されると、入れ替わって酒井忠勝が越後高田から10万石で入封 。元和8年(1622)酒井忠勝が出羽庄内に移封されると、真田幸村の兄で、関ケ原の合戦・大坂の陣で徳川方についた真田信之が信州上田から10万石で入封。以後、松代城は真田氏10代の居城として明治維新を迎える。 なお、城の名を松代城と改めたのは正徳元年(1711)真田氏三代幸道の時からである。 |
| 一口話 | 松代市街南方の皆神山の地下には巨大な防空壕が残っている。第二次世界大戦で敗戦が濃くなってきた頃、大本営をこの地に移すために掘らせたものである。 今から思えば狂気の沙汰としかいいようがないが、当時の軍最高部は真剣そのものであった。正しい歴史認識を後世に伝えるため、いつまでも見学できるように保存してもらいたいものである。 |
| 見どころ | 松代城は北西に流れる千曲川を天然の堀とし、三方を山に囲まれ、平城ながら要害堅固な城であった。森忠政の頃、二の丸・三の丸を整備し、土塁を石垣に築き直したといわれている。松代城跡は国の史跡に指定され、 平成7年から江戸時代の絵図に基づいて本丸跡と二の丸跡を中心に復元整備工事に着手。太鼓門と北不明門、木橋を復元したほか、内堀や土塁、石垣なども整備され、平成16年に完成した。二の丸大手にあたる二の丸南門跡を通ると太鼓門で、内堀に架かる太鼓門前橋が復元されている。復元された太鼓門は本丸内で一番大きな門で、二層の櫓門(太鼓門)と枡形門(橋詰門)で構成され、時を告げる太鼓を備えていたことからこの名がある。 本丸跡北側には北不明門も復元されている。北不明門は本丸の搦手に位置する門で、太鼓門と同じく二層の櫓門と表門(枡形門)で構成されている。18世紀中頃に行われた千曲川改修工事以前は、門が河川敷に接していたことから「水之手御門」とも呼ばれていた。櫓門は太鼓門櫓門とは異なって、石垣 と石垣の間に建てられた独立した門で、中世城郭の様相を残している。本丸跡東側には東不明門跡があり、内堀には復元された東不明門前橋が架かっている。櫓門が建てられていた東不明門は平時には閉じられており、太鼓門前橋などが崩落して利用できなくなった時などに通用門として開かれたという。 本丸跡を取り囲む二の丸跡は広々とした芝生広場となっているが、北側から東側にかけて見事な土塁が復元整備され、土 塁の北側には外堀の一部も残る。また、二の丸跡東側の石場門跡には門の位置をレプリカの礎石で示している。往時の松代城は本丸以外の曲輪は基本的に堀と土塁で囲まれていたが、復元整備工事が行われる以前は二の丸跡北西側に土塁が一部残るのみで、その ほとんどは削平されていた。江戸時代後半に行われた千曲川の改修により、川と城の間には百間堀・新堀が造られ、それらの堀際には「不崩(かけず)の土手」と呼ばれる土塁が築かれていた。復元整備事業により往時を偲ばせる土塁が見事に蘇ったことになる。ほぼ正方形をした本丸跡には海津城址の石碑が建っている。本丸跡の四隅には櫓が築かれていたが、中でも実質上の天 守に相当する櫓が築かれていた北西部の戌亥櫓台の石垣は見事で、城内で最も古い近世初頭のものといわれている。戌亥櫓台から西南に連なる土塁の中にトンネル状の「埋門」が復元されている。また、北不明門近くには井戸も復元。城跡北側には新堀の一部が残っている。 戌亥櫓台の上からの眺望は見事で、第四回川中島の合戦に際して、上杉謙信が陣を敷いた妻女山が3kmほど先に眺められ、上杉軍と武田軍が激闘を交えた八幡原は指呼の間にあり、この城が壮絶な川中島の合戦の舞台であったことが実感できる。松代城跡のすぐ南に国史跡の真田邸が昔のままの姿で残り、長土塀や泉水、屋敷門、白蔵 などが見られ、その隣には真田宝物館がある。宝物館には真田家家宝の「青江の大太刀」(重要文化財)などのほか、武田信玄・豊臣秀吉・徳川家康・石田三成らの書状も展示され、興味深い。真田邸と隣り合わせの所に松代藩校の「文武学校」も残っている。真田家八代幸貫が水戸の弘道館にならって嘉永6年(1853)に建てたもので、文学所、剣術所、柔術所などの多くの建物が現存し、全国の藩校の中でも貴重な遺構といえる。 |
| 周辺案内 | 松代には江戸時代を今に伝える建築物が大切に保存されている。 真田家筆頭家老矢沢家の重厚な表門や横田家住宅(国の重要文化財)などが残る武家屋敷町を散策したい。![]() また真田家の菩提寺である長国寺には歴代藩主の墓の他、日光東照宮の建築技法を駆使して造られたという初代藩主・真田信之のお霊屋がある。 松代といえば幕末の先覚者・佐久間象山の故郷である。日本開国と公武合体を唱えて全国で活躍した佐久間象山の旧邸跡の横には象山を祀った神社と、象山の遺品や資料を展示している象山記念館がある。 |