甲 府 城

朝鮮半島の倭城の影響を受けた縄張りの城

 所在地:山梨県甲府市丸の内
 別  称:舞鶴城
 築城年:天正11年(1583)
 築城者:平岩親吉
 形  式:平山城
 遺  構:石垣、天守台、堀、復元城壁

 地図 
石垣と堀
歴 史  甲府城は天正10年(1582)8月、北条氏政・氏直親子との甲斐争奪戦に大勝し、甲斐の国を手中にした徳川家康が平岩親吉に命じ、翌天正11年に築城させたのが始まりである。
 天正18年(1590)小田原攻めで北条氏を滅ぼした豊臣秀吉は、徳川家康を関東に転封するとともに、養子である羽柴秀勝を甲府城に入城させた。その後、加藤光泰、浅野長政・幸長(よしなが)親子に引き継がれ、次第に城は整備されていった。
 慶長5年(1600)関ケ原の戦いで戦功があった浅野家が紀州和歌山37万6千石の藩主となり、甲府城は再び徳川領となった。
 寛文元年(1661)三代将軍家光の三男綱重が城主となり、次いで、宝永元年(1704)先祖が甲斐出身である柳沢吉保が城主となった。柳沢吉保は自らの権威を高めるため、城の大改修を行なうと同時に、城下町の整備を進めた。
 しかし、享保9年(1724)柳沢氏が大和郡山に転封された後、甲斐は徳川幕府の直轄地となり、江戸から甲府勤番が派遣され、明治になって廃城となった。 
一口話  甲府城の政務を司る甲府勤番は、幕臣の間では「山流し」と呼ばれ、歓迎されざる職務だった。そのためか、享保12年(1727)の大火により本丸御殿をはじめ、多くの建物が焼失したにもかかわらず、城郭の修理は滞ったまま、甲府城は明治維新を迎えるに至った。
見どころ  甲府城は文禄・慶長の役の時に朝鮮半島に築いた倭城の影響を色濃く受けた縄張りとなっている。これは、豊臣秀吉が文禄の役から引き揚げてきた浅野長政を甲斐に転封させ、その浅野氏が入城とともに甲府城の築城を続行したためとみられる。
 また、発掘調査の結果、天守台下から大量の金箔瓦が出土し、甲府城には豪華絢爛な建物が存在したことがわかってきた。おそら天守台く、柳沢吉保が構築し、威容を誇ったと伝えられる豪華な御殿ではないだろうか。
 現在、城跡は舞鶴公園として整備されており、往時を偲ばせるのは天守台と堀、石垣だけだが、甲府城の石垣は、戦国時代末期の先端技術である穴太(あのう)積みと呼ばれる技法で築かれている。穴太積みとは、自然石、もしくは荒割石を組み合わせて、石材の隙間に詰石という小さい石をしっかりと詰め込んで高い石垣を築く技法である。
 現在甲府市では、穴太積み技法の調査を行ないながら、可能な限り当時の姿そのままに石垣の復元、修理を進めている。
周辺案内  甲府に来たからには、武田神社、甲府善光寺、甲府五山の参拝を兼ねて、「ミレーの美術館」として著名な山梨県立美術館を見学したい。ミレーの出世作「種をまく人」など、多くの人々に親しまれているミレーの生涯の絵画を観ることが出来る。
 少し足を伸ばせば、渓谷美で有名な昇仙峡がある。奇岩・怪石が並び、仙娥滝(せんがたき)という美しい滝があり、新緑、紅葉の季節が特に素晴らしい。 

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