小 諸 城
島崎藤村の詩で有名な武田信玄が築いた古城
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| 三の門(重要文化財) |
| 歴 史 | 小諸城の歴史は古く、平安時代から鎌倉時代に かけて『平家物語』や『源平盛衰記』に登場する木曽義仲の武将であった小室太郎光兼が居館を構えたのが始まりという。室町時代にはこの地の豪族大井光忠が小室氏の勢力を抑えて鍋 蓋城を築き、その子の光為が現在の二の丸跡に出城として乙女坂城を構えた。戦国時代に入ると、小諸地方は大井氏に替わって南信濃に勢力を張る村上氏の領有となったが、天文12年(1543)甲斐の武田信玄が村上義晴を破って城は落城した。 この地が東信濃の重要な拠点であったことから、武田信玄は山本勘助と馬場信房に築城を命じた。これが現在の小諸城跡で、天文23年(1554)に完成。 信玄は甥の武田信豊を小諸城主として北信濃の経営にあたらせた。天正10年(1582)信玄の跡を継いだ武田勝頼が織田信長によって滅ぼされると、信長の将滝川一益が小諸城主となる。同年6月、本能寺の変で信長が自刃した後、武田氏の武将であ った佐久の依田信蕃(のぶしげ)が小諸城に入城。同年7月、小田原の北条氏直が6万の大軍で攻め寄せると、依田信蕃は小諸城を捨てて徳川家康の下に落ち延び、小諸城は北条氏の先鋒大道寺政繁が占拠した。天正11年(1583)北条氏と徳川氏の争乱の末、小諸城は徳川家康の領有となり、依田信蕃の実子松平康国が城主となった。 天正18年(1590)豊臣秀吉が小田原の北条氏を滅ぼして 天下を掌握すると、仙石秀久が5万石で小諸城主となり、三層の天守をはじめ黒門や大手門を建て、その子仙石忠政が三の門と足柄門を建てるなど、城の大改築を行った。 徳川幕府の時代となって、元和8年(1622)仙石忠政が信濃上田に移封されると、小諸城は徳川家光の弟である松平忠長の領有するところとなるが、寛永元年(1624)松平憲良が美濃大垣から5万石で入封。その後、青山氏、酒井氏、西尾氏、松平氏と城主は交替したが、元禄15年(1702)越後与板から牧野康重が1万5千石で入封。以後、小諸城は牧野氏10代の居城として明治維新を迎える。 |
| 一口話 | 小諸といえば島崎藤村の「小諸なる古城のほとり雲白く遊子かなしむ・・・」の詩が頭に浮かぶ。藤村は明治22年小諸義塾に赴任し、小諸で過ごした6年余の間に『雲』、『千曲川のスケッチ』などが生まれ、大作『破戒』が起稿された。 懐古園内にある藤村記念館には小諸時代を中心とした作品・資料・遺品が展示され、島崎藤村ファンには興味深いものがある。 |
| 見どころ | 小諸城は全国でも珍しい城下町より低い位置に築かれた 穴城で、浅間山の火山灰でできているため水堀を用いず、崩れやすい断崖を天然の要害とした城であった。現在、 小諸城跡は懐古園という有名な観光地となり、大勢の観光客で賑わっている。懐古園の正門となっている三の門と、しなの鉄道小諸駅北側に建つ大手門が現存し、ともに国の重要文化財。大手門は本丸から数えて四番目の城門にあたるため「四の門」とも呼ばれ、城を守っていた一番外側の重要な門であった。慶長年間に再建された櫓門で、東日本に現存する代表的な大手門だが、保存修復工事のため平成20年3月まで見学は出来ない。 大手門からしなの鉄道の地下道を 渡ると三の門だが、大手門より低い位置に築かれ、門への登城道が下っていることから、小諸城が城下から見えにくい穴城であったことが実感できる。 三の門は明和2年(1765)に再建された寄棟造りの二層の櫓門で、徳川家達の筆になる「懐古園」の大額が掛かっている。三の門から二の丸跡の石垣を見ながら進んで行くと二の門跡の枡形が残り、石段の上が二の丸跡で、かつて大井光為が乙女坂城を築いていたところ。関ケ原の合戦に際し、徳川秀忠が上田城の真田昌幸と幸村父子に行く手を阻まれて20数日間足止めされたところでもある。 石段下の二の丸跡の石垣には若山牧水の歌を刻んだ大きな石が目を惹く。二の丸跡から番所跡を過ぎると、向かい合うように 北丸跡と南丸跡がある。北丸は隠居所があったところで、南丸には武器庫などが設けられていた。南丸跡への石段下には城主の通行や祝い事のたびに「うぐいす」の鳴声が聞かれるという鶯石がある。 さらに進むと主郭部へ通じる黒門橋。別名「そろばん橋」と呼ばれ、往時には緊急の時に橋げたを取り外すことが出来る太鼓橋が架かっていた。橋の下の両側には深い空堀が残る。黒門橋を渡ると一の門が建っていた黒門跡で、ここからが本丸跡。本丸跡の石垣は全国でも数少ない自然石の野面積みで、苔むした石垣は古城の趣きを感じさせる。本丸跡は牧野氏歴代を祀る懐古神社の境内となっているが、その一角に山本勘助が愛用したと伝えられる鏡石があり、 今も鏡のようで興味をそそる。勝海舟が題字を書いた懐古園の石碑も建っている。本丸跡の北西には天守台が残っている。かつては三層の天守が築かれていたが、寛永3年(1626)に落雷で焼失後は再建されなかった。 本丸跡南側の石段を下りると、石垣に付随して石塁が部分的に残っているが、山本勘助が縄張りをした遺構といわれている。本丸跡西側は細長い馬場跡で、今では桜の名所となっている。馬場跡西側の散策路には高浜虚子と臼田亜浪の句碑が建つ。 黒門橋を渡って本丸跡の石垣に沿って北側へ行くと荒神井戸が残っている。寛保の大洪水後に掘られたもので、城中唯一の井戸。 荒神井戸から西に進むと島崎藤村ゆかりの品々が展示された藤村記念館があり、その西側に 武器庫が建っている。文化14年(1817)藩主牧野康長が建てたもので、往時のままに復元された。武器庫の前から眺める天守台の石垣の勾配は壮観。武器庫の西側には藤村自筆の「千曲川旅情」の詩碑が建つ。この詩碑の背後が地獄谷と呼ばれる絶壁で、酔月橋が架かってい る。地獄谷に面した城跡の北西端に往時には不開門が築かれていた水の手展望台がある。展望台からは断崖の下に千曲川が望める。また、城跡の南西端には晴れた日には富士山が遠望できる富士見台もある。 2つの展望台とも断崖上に築かれ、地獄谷とあいまって、小諸城がいかに断崖を天然の要害としていた城であったかが良くわかる。 |
| 周辺案内 | 懐古園内には徴古館、郷土博物館や小山敬三美術館な どが点在する。徴古館には小諸城ゆかりの武具や古文書などが展示されている。郷土博物館には浅間山と小諸の地形や地質をはじめ、小諸の歴史・民俗・文学など広範にわたって文化財が展示され興味深い。高浜虚子記念館も訪れたい。高浜虚子は太平洋戦争の戦火を避けて昭和19年に小諸に疎開し、厳しく美しい風土に接して「小諸時代」という新たな詩の世界を展開した。この記念館には小諸時代の作品や資料を展示されており、隣接する虚子の旧宅「虚子庵」も公開されている。 小諸近くの観光地としては標高2000mの高峰高原がある。雄大な山容を見せる浅間山の西に続く車坂峠を中心としたなだらかな高原で、峠からの展望は素晴らしい。眼下には千曲川、遠くは富士山、八ヶ岳、北アルプスを一望できる。紅葉のシーズンはひときわ鮮やかである。 |