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八 上 城
(やがみじょう)

明智光秀に滅ぼされた波多野氏の山城

 所在地:兵庫県篠山市八上
 別  称:八上高城
 築城年:永正5年(1508)
 築城者:波多野元清
 形  式:山城
 遺  構:石垣、空堀、土塁、郭跡

 地図 
本丸跡
歴 史  応仁の乱後の下克上の時代、丹波守護細川氏の被官だった波多野氏が頭角を現し、永正5年(1508)波多野元清が八上城を築城した。
 戦国時代になると、波多野秀治は八上城を大修築して要害堅固な山城にするとともに、丹波一円に40余の支城、30余の砦を構え、一大勢力を誇っていた。その頃、天下統一を目指す織田信長にとって、中国の毛利氏を後ろ盾にしていた波多野氏一党は大きな障害となっていた。
 天正3年(1575)信長は明智光秀に丹波攻めを命令、光秀は苦心の末に八上城を攻め落とし、波多野氏は滅亡。その後、八上城は丹波亀山城の支城として城代が置かれていたが、慶長5年(1600)関ヶ原の合戦後、徳川家康の命により丹波亀山から前田茂勝が5万石を与えられて八上城に入城した。
 しかし、慶長13年(1608)前田茂勝は発狂のため改易となり、常陸笠間より家康の実子松平康重が八上城主となるが、翌慶長14年(1609)松平康重は山城の八上城を廃して、新たに篠山城を築城。戦国時代の激戦場だった八上城も廃城となった。
一口話  明智光秀の11回にもわたる猛攻撃にも八上城は落城せず、信長にせきたてられた光秀は自分の母を人質にして講和を申し入れた。
 ところが、波多野秀治・秀尚兄弟は安土城に送られて、光秀の命乞いにもかかわらず処刑。和議と称する謀略に激怒した八上城の将兵たちは光秀の母を磔にし、本丸に火を放ってことごとく自刃した。時に天正7年(1579)8月9日のことであった。光秀が本能寺の変に及んだのは、母の無残な見殺しも遠因となったといわれている。
見どころ  八上城は篠山盆地の中央に聳える標高459mの高城山(丹波富士)の山頂を中心に尾根伝いに多くの曲輪が築かれ、難攻不落といわれた堅固な山城であった。
 山麓の春日神社一帯は主膳屋敷と呼ばれ、八上城主の平時の居館があったところ。この春日神社からの登山道を登ると下の茶屋丸跡・上の茶屋丸跡・右衛門丸跡・三の丸跡・二の丸跡へとたどり着く。さらに岡田丸跡から尾根に沿って登れば本丸跡に至る。
 本丸跡は野面積みの低い石垣に囲まれ、中央に波多野秀治の碑が建っている。本丸跡に立つと、眼下に篠山盆地が広がり、篠山城跡の全容も眺められる。
 本丸跡からの下りは、光秀の母が磔になった松や血洗池跡などを見ながら藤ノ木口に至るのが一般的。休みながら八上城跡を一周するには約2時間は要するが、各所に残る曲輪跡や堀切、土塁、井戸、空堀などを見てまわれば、過ぎし日の八上城の悲話を思わずにはいられない。
周辺案内  篠山には見るべきところが多い。大書院が復元された篠山城跡を散策した後、丹波古陶館や能楽資料館を訪ねたい。
 篠山歴史美術館近くの春日神社の境内には西日本では最も古いといわれる江戸時代そのままの能楽堂がある。舞台の下には丹波焼の大壺が幾つも並べられ、自然の音響効果を発揮している。現在でも東京や大阪の能楽師を招いて春の桜の能、秋の月の能が催され、デカンショ節とともに篠山の風物詩となっている。
 篠山はまたボタン鍋で有名で、冬になると、それぞれの店で味の異なった味覚を堪能することができる。足を伸ばして立杭の丹波焼の里を訪ねるのも良いだろう。

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