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丹後田辺城

細川氏出世の第一歩を踏み出した城

 所在地:京都府舞鶴市南田辺
 別  称:舞鶴城
 築城年:天正7年(1579)
 築城者:細川藤孝(幽斎)
 形  式:平城
 遺  構:石垣、天守台、復元城門、模擬櫓

 地図 
復元城門
歴 史  天正6年(1578)織田信長は明智光秀と細川藤孝に丹波・丹後攻めを命じた。模擬櫓丹波攻めの総大将は光秀、丹後攻めは藤孝が総大将となったが、藤孝は建部山城主の一色義通を滅ぼして丹後を平定した。
 その功績により丹後一国12万石の領主となった細川藤孝は天正7年(1579)、丹後国経営の拠点として田辺城を築いた。
 天正10年(1582)本能寺の変で織田信長が明智光秀の謀反により倒れると、細川藤孝は微妙な立場に追い込まれた。藤孝の嫡男忠興の正妻玉子(細川ガラシャ)が光秀の息女であったからである。光秀は細川親子の援軍を期待したが、藤孝はこれを拒み、天守台の石垣忠興と玉子を離縁させ、自らは隠居して幽斎と名乗り細川家の安泰を図った。
 慶長5年(1600)関ケ原の合戦の際、細川幽斎は徳川家康の東軍に味方して田辺城に籠城、忠興は西軍に属する福知山城の小野木重勝を攻略した。その功により細川親子は豊前中津城主となり、後、細川氏は薩摩の島津氏の押さえとして肥後熊本城主54万石の太守となって明治維新を迎え、その子孫は現在も熊本の殿様といわれている。
 田辺城には細川氏の後、京極高知が12万3千石で入封するが、寛文8年(1668)京極高盛が但馬豊岡に移封され、代わって牧野親成が3万5千石で田辺城に入城、以後牧野氏10代の居城として明治維新を迎えた。
 現在の地名である舞鶴は田辺城の別称「舞鶴城」に由来している。
一口話  細川幽斎は古今伝授(『古今和歌集』の秘事口伝の伝承者)の第一人者であった。田辺城に八条宮智仁親王を招き古今伝授の奥義を伝え、「古(いにしえ)も今も変わらぬ世の中に心の種を残す言の葉」の一首を贈った。
 関ケ原の合戦に際して、細川幽斎はわずか500人の兵で田辺城に籠城し、石田三成方の大軍に攻められるが、古今伝授が絶えることを憂慮した時の後陽成天皇の勅命で田辺城の包囲が解かれ、田辺城は無事に明治維新まで続くことになる。
見どころ  田辺城跡は現在、本丸跡と二の丸跡の一部が舞鶴公園として整備され、本丸跡の石垣市民の憩いの場所となっている。
 昭和15年に彰古館として二層の隅櫓が建てられ、さらに平成4年には堂々とした城門が復元され、田辺城跡のシンボルとなった。
 彰古館には酒呑童子や浦島太郎などの錦絵を展示。城門の2階は田辺城資料館として、細川幽斎を中心とした歴代城主や、城下町・田辺の歴史を紹介している。
 心種園城跡内の何よりの見どころは細川幽斎が八条宮智仁親王に古今伝授を行なった心種園(しんしゅえん)で、小島の浮かぶ池や古今伝授の松が残る美しい庭園。この心種園の前に佇めば、和歌・音曲・茶道などに通じた戦国時代屈指の文化人であった細川幽斎の人となりが偲ばれる。
 城門を入ったすぐのところに天守台の石垣が一部残っている。平成2年から平成3年にかけての発掘調査の結果、この石垣は田辺城本丸の西端に位置する天守台の東側の石垣と確認された。
 本丸跡や二の丸跡に一部残る石垣は見ごたえがあり、在りし日の田辺城の名残りをとどめている。
周辺案内  赤レンガ博物館舞鶴といえば「岩壁の母」に歌われた太平洋戦争後の兵士引き揚げの港町として有名で、現在も自衛隊の基地として護衛艦などの艦船が係留されている。「引揚記念館」にはシベリヤ抑留兵の遺品など多くの貴重な資料が展示され、訪れる人々に平和の尊さを語りかけている。
 赤レンガ博物館も有名である。明治36年に旧海軍の魚雷庫として建てられたもので、現存するレンガ建築物としては日本最古のものという。インダス文明など世界四大文明を中心にした各国のレンガやレンガ建造物の模型などをわかりやすく展示した異色の博物館。博物館界隈は舞鶴市政記念館など赤レンガの建物が建ち並んでロマンチックな雰囲気をかもし出し、ロケ地として良く使われている。
 重要文化財の三重塔が美しい金剛院や、西国29番札所で馬頭観音を本尊とする松尾寺にも時間があれば立ち寄りたい。

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