
多 聞 城
山城と大和の国境に松永久秀が築いた城
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| 城跡碑 |
| 歴 史 | 多聞城は下克上の代表的人物といえる松永久秀が永禄 3年(1560)に大和国北方の佐保丘陵に築城したもので、京をうかがう姿勢さえみせた。松永久秀は足利幕府の管領細川氏の被官である三好氏の家臣で、三好氏が細川氏を凌いで機内を支配するようになると、久秀も大和一円に勢力を張るようになる。 永禄7年(1564)三好長慶が亡くなると、永禄8年(1565)には室町幕府十三代将軍足利義輝を殺害するなど久秀は専横を極めた。 永禄10年(1567)松永久秀の大和侵出によって大和北方から追われた筒井順慶は三好三人衆と結束して多聞城に攻め寄せたが、久秀は東大寺大仏殿を焼討ちにするなど、奇襲に奇襲を重ねてこれを撃退。 永禄11年(1568)織田信長が足利義昭を奉じて上洛すると、機内の形勢は一変。松永久秀は信長に属し、大和一国の所領を安堵された。 しかし、元亀2年(1571)久秀は辰市の合戦で筒井順慶に大敗し、順慶が信長に帰順するとともに久秀の勢力は次第に衰退。天正元年(1573)織田信長に多聞城を明け渡し、久秀は信貴山城に退いた。以後、多聞城は信長配下の明智光秀、佐久間信盛らが城番として兵を置いたが、天正4年(1576)には信長が安土城を築き、大和一国は筒井順慶に与えられた。 翌天正5年(1577)信長の石山本願寺攻めの最中、松永久秀は突如反旗を翻したため、信長軍に攻められて信貴山城は落城し、久秀も自爆。多聞城は信長の命を受けた筒井順慶によって完全に破却された。 |
| 一口話 | 多聞城は壮大な城郭で、永禄8年に多聞城を訪れた宣教師のアルメイダは「世界にかくのごとき美麗なるものありと思われず」と感嘆。信長が安土城築城の参考にしたとも伝えられている。 近世のどの城郭にもみられる「多聞櫓」の名称は松永久秀が築いた多聞城に由来している。 |
| 見どころ | 佐保丘陵を切り崩して築かれた多聞城は四層の天守を中心に、 白壁の櫓を城の周囲にめぐらした壮大・華麗で新奇な城郭であった。現在、多聞城跡は市立若草中学校の敷地となっており、正門を入ったところに多聞城跡の石碑が建っている。 若草中学校の西に隣接して聖武天皇陵・仁正(光明)皇后陵があるが、一説によると、この御陵も多聞城に取り込まれていたという。いかにも下克上の時 代らしい。城跡碑の前には中学校建設に際して出土した石仏が祀られているが、かつては石垣に使われていたものと思われる。 中学校西側には堀切や土塁らしい遺構も垣間見れるが、一代の奸雄松永久秀の生涯に思いを馳せながら、往時を偲ぶよすがしかない。 城跡碑の前からは奈良盆地の北端が一望でき、この地がいかに交通の要衝の地であったことが実感できる。 |
| 周辺案内 | 佐保路に面して建つ東大寺の転害門(国宝)から境内に入り、 聖武天皇時代に日本の総国分寺として建立された東大寺をくまなく見学したい。四天王像(国宝)が有名な戒壇院、廬舎那仏(大仏・国宝)を安置する大仏殿(国宝)、「お水取り」で有名な二月堂(重要文化財)、天平仏の宝庫といわれる法華堂(三月堂・国宝)、正門である南大門(国宝)と仁王像(国宝)など、古都奈良を代表する大寺院で、見どころはつきない。 大仏殿の北側にある正倉院には聖武天皇の御物を収蔵していた校倉(国宝)も残り、毎年、秋には国立奈良博物館で「正倉院展」が開かれ、全国からの大勢の観光客で賑わう。 |