勝 龍 寺 城
明智光秀の娘ガラシャが細川忠興に嫁いだ城
![]() |
地図 ![]() |
|
| 高麗門と模擬櫓 |
| 歴 史 | 勝龍寺城は南北朝時代の延元4年(1339)足利尊氏に属する細川頼春が 北朝方の前線基地として築いた。この地は西岡地方と呼ばれ、京都の南西部を守る要衝の地で、淀川沿いの男山、山崎方面に進出してきた南朝方に対する備えの城であった。時代は下り、応仁元年(1467)に始まる応仁・文明の乱に際して、細川勝元を総大将とする東軍が西軍の糧道遮断のため天王山に築城すると、山名宗全を総大将とする西軍は畠山義就を勝龍寺城主として対抗させた。 戦国時代になると、細川氏の家来筋にあたる三好一族の岩成友通が城主となるが、 永禄11年(1568)織田信長が足利義昭を奉じて上洛の際、柴田勝家の軍勢に攻撃されて落城。信長は築城者細川頼春の流れをくむ細川藤孝(細川幽斎)に勝龍寺城を与え、藤孝は城の大修築を行なった。細川藤孝の子忠興と明智光秀の息女玉(後のガラシャ)が祝言をあげたのもこの勝龍寺城である。天正7年(1579)細川藤孝が丹後田辺城に移ると、矢部氏、猪子氏が勝龍寺城の守将となった。 天正10年(1582)山崎の合戦で羽柴秀吉(後の豊臣秀吉)に敗れた明智光秀は勝龍寺城に後退、坂本城に逃げ帰る途中、山科で土民に襲われて命を落とした。光秀亡き後はその重臣三宅綱朝が勝龍寺城を守ったが、秀吉の大軍の前になすすべもなく落城し、その後勝龍寺城は廃城となった。 |
| 一口話 | 本能寺の変で織田信長が明智光秀の裏切りにあって自刃すると、細川藤孝は微妙な立場に追い込まれる。明智光秀は再三再四藤孝に味方になるよう依頼するが、藤孝はこれに同調せず、忠興と玉とを離縁させたうえに玉を山中に幽閉した。 玉はキリスト教の洗礼を受けガラシャと名乗り、後に細川忠興と復縁する。関ケ原の合戦の前夜、細川忠興は家康方に味方したため、石田三成はガラシャを人質として大坂城に入城させようとするが、ガラシャはこれを拒み家臣の手を借りて自らの命を絶った。キリスト教では自害は許されていなかったためである。時にガラシャ38歳。 |
| 見どころ | 勝龍寺城は勝龍寺という寺と古墳を合体させ、環濠集落を利用して築かれ、本丸と沼田丸を主郭とした平城であった。現在は発掘調査に基づいて本丸跡と沼田丸跡が整備され、平成4年に本丸跡が勝龍寺城公園として開園した。 本丸跡は東西約100m、南北約70mで、その周囲には石垣と堀、板塀をめぐらし、高麗門や隅櫓などが建てられ、実に城跡らしい美しい公園となっている。 高麗門から入ると、一見櫓風の管理棟があり、 2階には瓦などの出土品が展示されている。園内には日本庭園があり、市民の憩いの場所となっているが、その一角に細川忠興とガラシャの銅像が建っている。在りし日の勝龍寺城を偲ばせるものは北門跡や土塁、井戸跡である。北門跡はL字型に折れ曲がり、周囲には高さ2mの石垣が復元されている。敵が容易に入れない構造で、明智光秀が落ち延びたのもこの北門からという。 本丸跡に隣接する沼田丸跡は東西約50m、南北約60mの長方形で、周囲に土塁が築かれ、さらに堀が外側を囲んでいたが、今では自由広場となり、北側に堀跡が残っている。 |
| 周辺案内 | 長岡京市には多くの寺社があり、四季折々の風情とともに身近に歴史の息吹を感じることができる。学問の神様菅原道真を祀る長岡天満宮は梅、桜、紅葉の名所で、この付近は筍の名産地として知られている。 ![]() 長岡天満宮の西には日本の孟宗竹発祥の地として知られる寂照院や、弓講が行なわれる走田神社があり、さらに北に進めば光明寺に到着する。 光明寺は西山浄土宗総本山で、国の重要文化財である彫刻や絵画を数多く所蔵しており、特に秋の紅葉の頃は見事な景観美をかもしだす。 また、近くには早良(さわら)親王の幽閉の地として知られる乙訓寺がある。乙訓寺は空海ゆかりの寺でもあり、4月下旬から5月下旬にかけては大輪の牡丹が一斉に咲き誇る。 長岡京市の山間部には「楊谷観音」と呼ばれる楊谷寺があり、色とりどりの紫陽花の花が咲く6月には多くの人で賑わう。 |