佐 和 山 城
悲運の武将石田三成の一族が最後を遂げた城
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| 本丸跡に建つ碑 |
| 歴 史 | 佐和山城の歴史は古く鎌倉時代初期にまで遡る。 近江源氏の血を引く近江守護佐々木定綱の六男佐保時綱が館を築いたのが始まりと伝えられている。佐和山は古くは佐保山と呼ばれ、美濃と近江の国境にあり中山道を臨む要衝の地であった。その後、六角氏、京極氏などが支配してきたが、戦国時代に なって元亀元年(1570)姉川の合戦で織田信長軍に敗れた浅井長政の重臣礒野員昌(かずまさ)が8ヶ月間にわたって籠城戦を行い、結局織田軍に城を明け渡したが、この戦で佐和山城は難攻不落の城といわれるようになった。天正10年(1582)本能寺の変で信長が倒れた後、湖東の地は豊臣秀吉が支配するところとなり、文禄4年(1595)石田三成が19万4千石で佐和山城主となる。三成は直ちに佐和山城の大修築に着手し、五層の天守を中心に要害堅固な城郭を築き上げた。規模は壮大であったが防御面以外は極め て質素な造りで、石田三成の合理性をよく示すものであった。慶長5年(1600)天下分け目の関ケ原の合戦では、石田三成は東軍の徳川家康軍に破れて伊吹山山中を彷徨い、佐和山城は三成の父石田正継が総大将となったが、城兵はわずか千人であった。東軍1万5千の集中攻撃に必死の抵抗を試みるが、半 日ともたず落城。燃え上がる天守の中で石田正継以下石田一族は自刃し、身分ある女性たちは天守左手の断崖から身を投げたため、この谷は「女郎谷」と呼ばれるようになった。関ケ原の戦功により井伊直政が佐和山城主となったが、あまりにも荒廃していたため、直政の嫡男井伊直勝が慶長8年(1603)彦根城を築き佐和山城は廃城となった。 彦根城築城にあたっては佐和山城の石材などが転用され、徳川家康の命により佐和山城は二度と城として使われることのないよう徹底的に破壊された。 |
| 一口話 | 「三成に過ぎたるもの二つあり、島の左近と佐和山の城」と落首にうたわれた。三成が三顧の礼で迎えた名将島左近は関ケ原で討ち死に、要害堅固な佐和山城も落城、跡形もなく破壊されてしまった。 三成は豊臣秀吉の優秀な官僚であったが、秀吉の晩年、朝鮮半島に出兵した大名たちの論功行賞で恨みを買い、関ケ原の合戦では福島正則をはじめ豊臣家恩顧の大名は徳川家康方についた。もしも、石田三成が幼き豊臣秀頼を戦場に連れて行けば、小早川秀秋の裏切りもなく、豊臣恩顧の大名も戸惑い、後年の歴史は大きく変わっていたかもしれない。しかし、歴史では「もしも」は禁句である。 |
| 見どころ | 悲運の城、佐和山城跡は曲輪跡や堀切、土塁、隅石、 井戸などが残るだけで、現在では標高232mの本丸跡まで大手口からと井伊家先祖の菩提寺龍潭寺からの登山道があるが、大手口からの登山道は急な山道なので、龍潭寺から登るのが一般的。龍潭寺の境内入り口には石田三成の銅像が建ち、ここから本丸跡まで徒歩約30分。格好のハイキングコースである。 本丸跡はかなりの広さで、往時はここに五層の天守が築かれていたが、今では佐和山城址の石碑が建つのみ。本丸跡から一段下がったところに巨岩が2個重なっており、天守の石垣と考えられている。 本丸跡から急な石段を降りたところに 「千貫井戸」が残っている。今でも水を湛え、城兵の飲用水として千貫にもかえがたい貴重な井戸だったことからこの名がある。広場と化した本丸跡から眼下に琵琶湖と彦根城を望めば、この地がいかに要衝の地であったかが実感できる。 なお、彦根市内の宗安寺の山門は佐和山城の大手門を移築したもので、馬に乗っても駆け込めるように敷居がなく、この朱塗りの見事な門は佐和山城の貴重な遺構である。 |
| 周辺案内 | 歴史好きな人は関が原の合戦を偲びつつ佐和山城跡に登り、その後彦根城を訪ねれば感慨もひとしお深くなるだろう。 近江といえば近江商人の故郷である。石田三成が合理的で算盤勘定に長けていたのは近江出身であったからであろう。五箇荘には近江商人の屋敷がいくつか公開され、金堂地区や石馬寺周辺には白壁土蔵の屋敷跡が残り、絶好の散策地である。 石馬寺は聖徳太子の乗馬が石に変じたという由来からこの名があり、宝物殿には重要文化財の仏像が安置されている。石馬寺への参道も苔むした石段で、なかなか風情がある。 |