大 坂 城
豊臣秀吉が天下人の威光を示した壮大な城
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| 復興天守 |
| 歴 史 | 大坂の地はかつては石山と呼ばれた。本願寺八代蓮如が明応5年(1496)隠居所として坊舎を建てた所で、明応7年(1498)蓮如の『御文』で初めて大坂の地名が歴史に登場する。 天文元年(1532)京都の山科本願寺が焼き討ちされると、 石山本願寺として一向宗の大本山となった。その寺域は四方八町に及び、中央に大伽藍を設け、周囲には塀や堀をめぐらした城郭ともいうべきものであった。織田信長と石山本願寺が対決した世に名高い「石山合戦」は元亀元年(1570)から10年にも及んだが、信長は苦戦の末、天正8年(1580)についに石山本願寺を攻略、その寺跡を整備して城番を置いた。 天正10年(1582)織田信長は本能寺の変で明智光秀に倒されたが、羽柴秀吉(後の豊臣秀吉)は山崎の合戦で光秀を破り、その勢いで天正11年(1583)北ノ庄城の柴田勝家を滅ぼすと、天下人の威光を示すため石山本願寺跡 に大城郭の築城工事に着工した。浅野長政と増田長盛が普請奉行となり、30余国の諸大名を動員、人夫の数も1日5万人といわれるほどの大工事で、3年半を要して本丸の五層八階の大天守を中心に、二の丸・三の丸・総構えから構成される難攻不落ともいえる壮大な城郭を築き上げた。天守の内部は金箔で飾られ、軒瓦にも金を用い、黄金の茶室も造られたほどの絢爛豪華なものであった。このため、別名を錦城という。 しかし、秀吉が在城したのはわずか数年に過ぎず、慶長3年(1598)秀吉は伏見城で没し、大坂城は子の豊臣秀頼の居城となった。 慶長5年(1600)天下分け目の関ケ原の合戦で勝利し、慶長8年(1603)征夷大将軍に任ぜられ江戸幕府を開いた徳川家康に残された問題は豊臣秀頼の処遇であった。家康は幕府に仕える一大名になることを期待したが、秀頼は時勢を判断できる有能な家臣に恵まれず、 太閤秀吉時代の再来を夢見るばかりであった。家康はついにシビレを切らし、京都方広寺の鐘名文に難癖をつけて大坂へ出陣した。時に慶長19年(1614)11月のことである。大坂冬の陣では、大坂方の真田幸村や後藤又兵衛をはじめとする猛将の反撃にあったうえ、大坂城は難攻不落の城であったため、家康は織田信長の弟で秀頼の家臣であった織田有楽斎を操って和議にこぎつけた。そして、外堀だけではなく、和議の条件に無かった内堀まで一方的に埋めてしまい、大坂城を裸同然のものにした。 翌元和元年(1615)に起こった大坂夏の陣では堀が埋められていたため、大坂方は籠城戦が出来ず、野戦となって真田幸村、後藤又兵衛、長宗我部盛親、木村重成などの名将が次々と戦死し、5月7日、燃え広がる大坂城内の糒倉の中で秀頼は母淀君とともに自刃、豊臣家はここに滅亡した。秀頼23歳、淀君49歳の時であった。豊臣家滅亡後、大坂城は松平忠明に与えられたが、徳川幕府は元和5年(1619)忠明を伊勢亀山に転封して、大坂の地を幕府の直轄地とし、二代将軍秀忠、三代将軍家光の時代にかけて元和6年(1620)から10年の歳月を費やして大坂城の大修築を行なった。豊臣秀吉が築いた大坂城の上に10mもの盛り土を施し、豊臣色を一掃する新たな城を築きあげた。 天守は五層五階、石垣なども江戸城を凌ぐ技法で築かれた城であったが、平和な時代となっただけに、徳川の威光を示すものであれば良かった。大坂城には江戸時代を通じて城代が置かれたが、再び大坂城が歴史の舞台に登場するのは風雲急を告げる幕末になってからであった。十四代将軍家茂は長州征伐のため二度にわたり大阪城に入るが、大坂城で病没。十五代将軍慶喜は慶応3年(1867)京都二条城で大政を奉還し、大坂城に謹慎するが、翌明治元年(1868)鳥羽・伏見の戦いで、錦の御旗を掲げる薩長軍に一方的に攻められ、慶喜は密かに大坂城を軍船で脱出して江戸に向かった。ここに名実ともに徳川幕府の幕は閉じることになる。 |
| 一口話 | 大坂の陣で後世まで名を残したのは真田幸村である。冬の陣では最も防御に弱い大坂城の南側に「真田丸」という出丸を築き、この出丸を攻めた前田利常軍は完敗、その報せに接した徳川家康は茶臼山に本陣を移した。家康は真田幸村を10万石で召し抱えようとしたが、まったく相手にされたなかったという。 夏の陣では、真田幸村は豊臣秀頼に総大将として出陣するよう要請したが受け入れられず、幸村は死を覚悟して家康の本陣を目指し一目散に猛進した。その勢いに本陣は混乱し、家康は命からがら逃げ延びたが、所詮は多勢に無勢。幸村もついに力尽き討死した。 この幸村の戦いは後世に長く伝えられ、「真田十勇士」という講談にもなり、現在でも小説や時代劇などのヒーローとなっている。 |
| 見どころ | 国の特別史跡である大阪城は、くまなく見て周るには半日はかかるほどの広大さである。大阪城といえば誰もが復興された天守を思い浮かべるが、見どころはそれだけではない。 大手門をはじめとして国の重要文化財に指定されている建造物が戦火を免れて多数現存し、蛸石や肥後石などの巨石の数々が見るものの目を奪う。まず、外堀に沿って散策し、国の重要文化財である乾櫓、千貫櫓、六番櫓、一番櫓を堀越しに眺めてから城内に入りたい。 大手門 (重要文化財)近くにある千貫櫓はその北方にある乾櫓とともに大阪城内では現存する最古の建造物。千貫櫓の名は、石山合戦に際して織田信長の将兵が「千貫文払ってもあの櫓を手に入れたい」と語ったことに由来している。二の丸には7つの櫓があったが、今では一番櫓と六番櫓が残っている。大阪城の正門である大手門を入ると巨石を用いた大手枡形があり、二層の堂々とした多聞櫓(重要文化財)が見るものを圧倒する。松永久秀の大和多聞城に由来する多聞櫓は全国各地の城に残っているが、その規模の大きさは大阪城に現存するこの多聞櫓が随一である。 多聞櫓をくぐると西の丸庭園の入り口がある。良く整備された芝生が美しい庭園で、秀吉の正室「北の政所」が住んでいたところ。園内には豊松庵という茶室があり、北端には焔硝蔵(重要文化財)が残っている。 焔硝蔵はすべて花崗岩の切り石造りで、大阪城内に残る唯一の火薬庫である。二の丸跡へ進むと石山本願寺推定地の碑が建ち、豊臣秀吉を祀った豊国神社がある。二の丸跡からは本丸跡をめぐる空堀と内堀を眺めることができる。 本丸跡への入り口である桜門(重要文化財)をくぐると桜門枡形の蛸石と呼ばれる巨石が目を惹く。蛸石はおよそ36畳もの巨大さで、京橋口枡形に残る33畳の肥後石などとともに、大阪城を代表する巨石。これらの巨石は外様大名たちが徳川幕府の覚えをめでたくするために競って運び込んだものといわれている。桜門の名は豊臣秀吉時代以来のもので、この付近の桜並木が見事だったためこの名が付けられたという。 本丸跡に入ると絢爛豪華で威風堂々とした天守を仰ぎ見ることができる。天守は昭和6年に復元されたが、太平洋戦争の際の大空襲でも奇跡的に焼失を免れ、平成の大改修で五層八階からなる豊臣時代を偲ばせる壮大な天守に生まれ変わった。その内部は最先端技術を駆使した歴史博物館となっており、1階はシアタールーム、2階は大阪城の紹介コーナー、3、4階は豊臣秀吉の時代、7階は豊臣秀吉の生涯を紹介している。8階の展望台からは眼下に大阪市街、東に生駒・葛城・金剛山、西に六甲連山が眺められ、天下人になったような気がする。天守前には金明水井戸屋形(重要文化財)が残っている。寛永3年(1626)天守築城と同じ年に掘られた井戸で、江戸時代には「黄金水」と呼ばれていた。また、老朽化のために閉館された市立博物館の北側には金蔵(重要文化財)が現存している。徳川幕府の金貨・銀貨の保管庫で、 外壁の下半分のなまこ壁が美しい。金明水井戸屋形とともに本丸跡に残る江戸時代の貴重な遺構である。天守の北側には山里丸があり、大政所(秀吉の母)の居館跡といわれているが、豊臣秀頼と淀君が自刃した場所でもあり、その慰霊を慰めるための石碑が立っている。 山里丸から極楽橋を渡って京橋口に出れば、満々と水を湛えた内堀と本丸を囲む石垣が美しく、ここから眺める天守は一幅の絵画のようだ。 連綿と続く石垣や天守を眺めながら内堀を散策し、さらに広大な外堀に至れば、豊臣氏、徳川氏が威信をかけて築いた大阪城がいかに巨大な城郭であったかが良くわかるだろう。 なお、大阪城の東側に広がる大阪城公園は梅の名所として有名。入り口にはかつての大坂城非常口ともいえる青屋門が昭和45年に復元されている。 |
| 周辺案内 | 大阪城大手門前に近年オープンした大阪歴史博物館では、映像や展示物などで大阪の歴史を知ることができ、内部からは大阪城や難波宮跡が眺められ、新たな観光スポットとなっている。 大阪城のすぐ南には国史跡の難波宮跡がある。飛鳥時代と奈良時代の一時期に天皇が居住した宮跡で、孝徳天皇を難波宮に置き去りにして飛鳥の地に引き揚げた中大兄皇子(後の天智天皇)の話など、幾多の史話を語りかける。聖徳太子が建立した四天王寺や海の神様を祀る住吉大社など、大阪には見るべき史跡や社寺が数多く残っている。井原西鶴の墓や幕末に福沢諭吉など数々の人材を輩出した緒方洪庵の適塾などもあり、歴史散策には事欠かない。 かつては芝居小屋が建ち並んでいた道頓堀界隈は、現在では「食いだおれ」の名にふさわしい飲食店街として大阪一の繁華街として賑わっている。 大正時代に建てられたネオ・ルネッサンス様式の中央公会堂(重要文化財)や安宅コレクションの収蔵で有名な東洋陶磁美術館などがある中之島公園は水の都にふさわしい公園として整備され、格好の散策地。 |