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三 木 城

秀吉によって「干殺し」にされた別所氏悲劇の城

 所在地:兵庫県三木市上の丸町
 別  称:釜山城
 築城年:明応元年(1492)
 築城者:別所則治
 形  式:平山城
 遺  構:井戸、模擬城壁

 地図 
本丸跡
歴 史  室町時代末期の明応元年(1492)別所則治が播磨模擬城壁の守護大名赤松氏の支城であった釜山城を大修築したのが三木城の始まりで、以後、東播磨一帯を支配する別所氏代々の居城となった。
 戦国時代の元亀元年(1570)三木城主となった別所長治は当初、織田信長勢と友好関係にあった。しかし、天正6年(1かんかん井戸578)羽柴秀吉(後の豊臣秀吉)が信長から播磨・中国攻めを命じられると、比叡山焼き討ちや一向宗徒への弾圧などの信長の残虐な行為や、播磨で主のごとく振る舞う成り上がり者の秀吉の存在に我慢ができなくなり、別所長治は突如として反旗を翻し、中国の雄毛利方と手を結んだ。
 秀吉は三木城などひとたまりもなく制圧できると思っていたが、別所長治は東播磨の諸城を味方につけて善戦。このため、秀吉は周辺の城を次々と攻め落として三木城を包囲し、籠城戦となった。
 毛利の援軍を頼りとして三木城は良く耐えたが、やがて食天守跡に建つ別所長治辞世の句碑糧は底をつき「干殺し」の惨状を呈し、天正8年(1580)ついに別所長治は一族の命と引き換えに城兵と領民の助命を嘆願して開城。別所長治は妻子、一族とともに自刃、時に長治23歳であった。
 別所長治の騎馬像この後、三木城には秀吉が入城するが、黒田官兵衛孝高の進言により姫路城に入城。天正10年(1582)本能寺の変で信長が倒れた後、中川清秀などが三木城主となる。
 慶長5年(1600)の関ケ原の合戦後、三木城は姫路城主池田輝政の領有するところとなったが、元和2年(1616)小笠原忠真を領主とする明石藩に編入され、翌元和3年(1617)一国一城令によって廃城となる。
一口話  秀吉の大軍に包囲された別所長治の三木城は良く持ちこたえたが、食糧は底をつき、城内では馬は言うに及ばず、犬や猫、木の皮、さらには人の死骸まで食らうという地獄絵図さながらの惨状を呈した。
 ことここに至って、別所長治は一族の命と引き換えについに開城。妻子、一族とともに自刃し、家老の三宅治忠をはじめ、家中の多くの者が殉死した。22ヶ月にも及ぶ籠城戦は世に「三木の干殺し」と呼ばれるようになった。
見どころ  三木城は山陽道の要衝の地である釜山に築かれた平山城で天守跡あったが、城跡の大半は市街地となり、現在では本丸跡が上の丸公園となっている。
 本丸跡西側の断崖上には城壁が築かれ、眼下に三木市街と美城跡西側の断崖嚢川が望め、往時の要害堅固さがわずかながらにうかがえる。
 本丸跡の小高くなったところが天守跡で、別所長治の「今はただ恨みもあらじ諸人(もろびと)のいのちにかわる我が身とおもへば」という辞世の句碑が建つ。
 天守跡下には別所長治の騎馬像が建ち、城兵と領民の助命を嘆願して自刃した長治の短い生涯が偲ばれる。
 本丸跡には「かんかん井戸」と呼本丸跡ばれる大きな空井戸がある。本丸跡に残る唯一の井戸で、石を投げ込むと「カンカン」と音がすることからこの名があり、一説にはこの井戸が城外への抜け穴であったという。
 上の丸公園近くの雲龍寺はかつては三木城の一角にあり、別雲龍寺境内にある別所長治夫妻の首塚所長治が自刃の際、住職に後を託し、愛用の金天目の湯呑みを贈ったという。境内には時の住職が長治夫妻の首を貰い受けて埋葬したと伝えられる首塚がひっそりと佇んでいる。首塚脇に建つ「由緒の碑」の下の石垣は三木城の外堀に使われていたもの。
 秀吉の兵糧攻めによる飢えから、籠城した兵士が壁土の藁をも食べたとの言い伝えから、雲龍寺では毎年1月17日の別所長治の命日に、藁に見立てた「うどん」が振舞われる。
周辺案内  金物資料館三木といえば金物の町として全国的に有名。上の丸公園内に建つ金物資料館には伝統的手工業の製法や金物製品の資料を保存、展示されている。校倉造り風の資料館前には大正時代から親しまれてきた唱歌「村のかじや」の記念碑が建ち、人が近づくとそのメロディーが流れてくる。
 伽耶院は大化年間(7世紀中頃)法道仙人が創建したと伝えられる修験道の古刹。秀吉の三木城攻めの時、一山ことごとく焼失してしまったが、姫路城主池田輝政や明石城主小笠原忠真らによって一部が再建され、金堂・多宝塔・三坂明神社本殿・毘沙門天像は国の重要文化財に指定されている。

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