観 音 寺 城
信長に滅ぼされた近江源氏六角氏の巨大な山城
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| 本丸跡の石垣 |
| 歴 史 | 『太平記』によれば、宇多源氏佐々木氏の嫡流六角氏頼 が南北朝時代の建武2年(1335)、南朝の北畠顕家軍に対抗するため観音寺山に築城したと記されている。当時の城郭はさほど大掛かりなものではなく、本格的な観音寺城が築かれたのは、応仁の乱の最中である応仁2年(1468)六角高頼の時であった。 長享元年(1487)六角高頼は室町幕府の領地などをたびたび侵略したため、時の九代将軍足利義尚が討伐に赴くが、 高頼は甲賀衆の力を借りて義尚を翻弄。足利義尚はこの地で病死する。戦国時代に入って、六角義賢の代になると新兵器である鉄砲(種子島銃)が伝来。この鉄砲が実戦で威力を示したため、義賢は弘治2年(1556)多くの人夫を徴発して石垣をめぐらすなど、観音寺城の大修築を行っ た。永禄11年(1568)織田信長は足利義昭を奉じて上洛を目指したが、六角義賢・義弼父子は観音寺城に籠って信長軍を阻止しようと図った。しかし、観音寺城のすぐ南にあった支城箕作(みつくり)城が信長軍によって攻め落とされたため、義賢・義弼父子は観音寺城を捨てて甲賀の三雲城へ逃亡。 その後、再び六角義賢(承禎)は信長に反抗したため、観音寺城は焼き払われてしまい、名族六角氏もここに滅びることになる。 |
| 一口話 | 室町幕府は応仁の乱以降、急速に衰微していったが、六角義賢は十二代将軍足利義晴、十三代将軍足利義輝を庇護するのに精魂を傾けた。 その室町幕府も十五代将軍足利義昭が織田信長によって京から追放され、清和源氏の血をひく足利氏も鎌倉時代から続く長い歴史の幕を閉じた。宇多源氏の嫡流六角氏も信長に敗れて足利氏と運命をともにし、天下人信長によって新しい時代の夜明けを迎えることになる。 |
| 見どころ | 観音寺城は標高433mの繖(きぬがさ)山(観音寺山)に築かれ、山全体を城郭とした我が国屈指の典型的な山城で、国の史跡に指定されている。山頂部には樹間に本丸跡の石垣や石段、さらに平井丸や池田丸などの曲輪跡が残っている。また、山麓には御屋形跡があり、源氏の氏神である八幡宮が建っている。 本丸跡は広場になっていて、 曲水の宴を催したとされる石で組んだ遺構や、大天井戸と称する籠城に備えた命水が残る。本丸跡の虎口の石垣は往時の面影を良くとどめ、山上の雨水が石垣を崩さないようにと考案された石の樋が見てとれる。この工夫を凝らした石の樋や本丸跡、曲輪跡の随所に残る崩れかかった石垣や土塁などが往時の観音寺城の姿を偲ばせる。 観音寺城には20以上もの曲輪が存在していたというが、西国三十三ヶ所霊場で有名な観音正寺の近くにも淡路丸などの曲輪跡が残る。観音正寺あたりからは湖東一円や旧中山道が一望でき、観音寺城が軍略的に要衝の地であったといえよう。 山頂近くにある観音正寺近くまで車で登ることも出来るが、山中至るところに散在する石類や苔むした山道、曲輪跡なども残っているので、かなりの脚力を要するものの麓から登って行くと、観音寺城が日本五大山城の一つに数えられていることが実感できる。 |
| 周辺案内 | 観音寺城跡に登ったからには西国三十三ヶ所の三十二番札所である観音正寺に詣でたい。 推古天皇13年(605)苦しみから救ってほしいという人魚の願いを聖徳太子が聞き、寺を創建したという言い伝えがある。本尊の秘仏・千手観音は国の重要文化財。観音寺城跡に向かい合う安土山は、天下人となった織田信長が安土城を築いたところ。山麓には安土城天守の五階と六階部分の実物大模型を展示した「信長の館」もある。 山背(やましろ)国とともに近江国は中国の秦の子孫と称する朝鮮半島からの渡来人・秦(はた)氏が開拓した国だが、布引山の麓にある石塔寺は秦氏が建立した寺といわれている。国の重要文化財に指定されている三重の石塔は日本最大にして最古の石塔で、百済の都であった地に建つ石塔とそっくりそのままである。 |