姫路城の歴史
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姫路城は南北朝時代の貞和2年(1346)、播磨の守護赤松則村の次男赤松貞範が南朝方に備えるために姫山に城を築き、赤松氏の家老小寺氏が代々この城を守ってきた。 嘉吉元年(1441)当時播磨・美作・備前三国の守護であった赤松満祐が京都の赤松邸で室町幕府六代将軍足利義教を殺害して、赤松氏一族は播磨に引き揚げ、書写山南麓の坂本城に本拠を構え室町幕府の追討軍を迎え撃つ体制を整えた。しかし、赤松氏は山名持豊(後の山名宗全)の軍勢に攻略され、播磨の国は山名持豊の支配するところとなり、姫路城もその統治下に入った。これが世に有名な「嘉吉の乱」である。赤松氏の遺臣は赤松家を再興すべく奔走し、南朝方から三種の神器の内の勾玉を奪って北朝方に献上した功績により、赤松政則が赤松氏の家督を継ぎ、応仁元年(1467)から始まった応仁の乱に乗じて山名氏を破って旧領の播磨の国を回復、姫路城の陥落にも成功した。赤松政則は荒廃していた姫路城の再構築に着手、本丸・鶴見丸を築いて再び小寺氏に姫路城を守らせた。 戦国時代に入ると小寺氏は御着に城を築いて居城とし、天文14年(1545)小寺氏の命により小寺氏の家老黒田重隆が姫路城代となった。この重隆の孫が有名な黒田官兵衛孝高(後の黒田如水)である。この頃播磨は東に織田信長、西に毛利元就という二大勢力に挟まれていたが、黒田孝高は織田信長の天下になると見越して信長方につき、信長に中国攻めを命じられた羽柴秀吉(後の豊臣秀吉)に姫路城を譲り渡し、秀吉の軍師となった。 天正8年(1580)秀吉は毛利攻めの拠点として姫路城に入城、浅野長政に縄張りをさせ、黒田孝高を普請奉行として城の大幅修築を行い、現在の大天守の位置に三層の天守を築いた。 天正11年(1583)秀吉が大坂城に移った後、秀吉の弟秀長が姫路城主となるが、 天正13年(1585)秀長が大和郡山城に移ると、秀吉の正妻北政所の兄木下家定が2万5千石で姫路城主となった。姫路城が西国大名に睨みをきかす大城郭となるのは、慶長5年(1600)天下分け目の関ケ原の合戦で徳川家康の東軍について軍功をあげ、家康の娘婿でもある池田輝政が播磨一国52万石の大大名となって姫路城主となってからである。 池田輝政は大坂城と豊臣恩顧の西国諸大名に備えるため、さらに52万石の大名にふさわしい居城とすべく、家康の支援のもと、慶長6年(1601)から姫路城の大改築に着工、ほぼ完成したのは慶長14年(1609)である。8年がかりの大工事で築かれた姫路城は城郭建築の技術の粋を結集したもので、五層七階の大天守と三層の小天守が連結した本丸、二の丸など、現在見られるような大規模で防備と造形美を兼ね備えた城となった。 池田氏は輝政の後、利隆、光政と3代続くが、元和3年(1617)池田光政は幼少のため因幡鳥取へ移封となり、替わって本多忠政が伊勢桑名より15万石で姫路城主となった。池田輝政の頃は豊臣家も存在し、徳川幕府が威勢を示すため52万石を与えたが、元和元年(1615)の大坂の陣で豊臣家も滅亡して徳川幕府の礎も固まったため、姫路城も徳川譜代大名の15万石の居城となった。 本多忠政の時代となっても姫路城の改築工事は継続され、忠政の嫡男忠刻(ただとき)は家康の孫である千姫を妻として いたため10万石の化粧料が与えられ、忠刻と千姫の居館、今も残る西の丸・化粧櫓、三の丸が築かれた。徳川幕府は山陽道の要として姫路城を重要視し、本多氏の後、松平氏、榊原氏など徳川譜代の重鎮が代々居城とした。寛延2年(1749)酒井忠恭(ただずみ)が上野前橋から15万石で入封し、以後酒井氏10代で明治維新を迎えた。 明治になって姫路城は陸軍省の管轄になったが、保存が困難ということで払い下げの入札にかけられ、姫路市内の神戸氏が23円50銭で落札した。これは姫路城の金物の価値を見込んでの金額だったが、いざ取り壊しとなると莫大な費用を要するため、結局権利を放棄した。このため他の城と同じく公費で取り壊されることになったが、時の陸軍省の中村大佐が姫路城を惜しんで、陸軍卿山県有朋に建白書を出して訴え、陸軍省による保存修理が決まった。時に明治12年のことである。 太平洋戦争の際の空襲でも奇跡的に姫路城は焼失せず、昭和の大修理によって日本を代表する名城として装いも新たになり、平成5年に世界文化遺産に登録された。 |