
千 早 城
楠木正成が鎌倉幕府の大軍を翻弄した城
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| 城跡碑 |
| 歴 史 | 元弘元年(1331)京都を逃れた後醍醐天皇は倒幕の 旗印を立てて笠置山で挙兵するが、鎌倉幕府の大軍に攻められて落城し、捕われの身となる。河内の小豪族に過ぎなかった楠木正成が後醍醐天皇を迎えるべく築城した赤阪城も落城し、正成は戦死したと見せかけて金剛山に脱出した。後醍醐天皇が隠岐島に流された元弘2年(1332)、吉野で挙兵した護良親王に呼応して、楠木正成も金剛山中腹に千早城を築いて再起を図った。 翌元弘3年(1333)吉野を攻略した鎌倉幕府軍は数万の軍勢を率いて千早城へと軍を進めた。楠木軍は約千人の兵で千早城に立て籠もった。鎌倉幕府軍は小さな城だとあなどって攻めるが、楠木正成軍は幕府軍を城近くまで引き寄せた上で、櫓から大石や大木を次から次へと落とすという奇襲作戦で幕府軍を大混乱に陥れた。さらに、一重に見せかけた城壁は二重になっていて、攻め寄せた大軍に対して外側の壁を倒したため、幕府軍は6千人も谷底に落ちたという。 また、甲冑を着せた藁人形 を城の麓に並べて幕府軍を慌てさせたり、巨大な梯子を作って攻め寄せる幕府軍に対してその梯子を焼き落とすなど、楠木正成は知略の限りを尽くして幕府方の大軍を翻弄し、この小さな城で100日間も戦い続けた。この間に関東でも倒幕の動きが見え始めると、幕府軍は千早城を離れて関東に戻る武将が続出。そして足利尊氏の京都六波羅探題攻略、新田義貞の鎌倉攻めでついに鎌倉幕府は滅亡した。楠木正成の千早城での戦いが倒幕につながり、後醍醐天皇は建武元年(1334)隠岐島から京都に入り、天皇親政の建武の中興を行なった。 しかし、建武の中興は成功せず、各地の武将が武士の棟梁と仰いだ足利尊氏が後醍醐天皇に反旗を翻すと、楠木正成は敗戦を覚悟して湊川の合戦に出陣し、足利軍に敗れ自刃する。正成の死から半年後、わずか3年余りで建武の中興も終わり、延元元年(1336)足利尊氏は室町幕府を開くことになる。千早城は楠木正成の死後、南朝に味方した楠木正行(まさつら)・正儀・正勝が根拠地とするが、元中9年(1392)足利幕府の畠山基国らの兵により攻め落とされ、千早城は61年の歴史を終えることになる。 |
| 一口話 | 楠木正成は河内出身の土豪といわれているが、その出自は明らかではない。『太平記』には後醍醐天皇が笠置山で楠の夢を見て楠木正成を呼び寄せたと記しているが、実際は後醍醐天皇の腹心の公家が味方に引き入れたものとみられる。 後醍醐天皇に拝謁してからの正成は忠義を貫き通す。一旦は鎌倉幕府滅亡に力を貸した足利尊氏が反旗を翻し、九州から京に攻め上ろうとした時、正成は正攻法で戦っても勝ち目は無いとみて、後醍醐天皇を比叡山に移して足利尊氏軍を京都に入れ、周囲を囲んで兵糧攻めにするという策を提案するが、公家の反対でその策も受け入れられなかった。 ここに至って、正成は死を覚悟して桜井の駅で子の正行と別れを告げ、湊川の合戦で戦死する。正成は末永く忠臣の手本とされ、神戸の湊川神社に祀られている。 |
| 見どころ | 千早城は標高660m、千早の里からも200mも 高いところに築かれ、城の南(妙見谷)、北(風呂谷)、西(大手口)の三方は絶壁で、東方だけが尾根伝いに金剛山山頂につながっているという要害堅固な山城であった。現在、千早神社の境内となっている千早城跡は国の史跡に指定され、『太平記』に記された千早城攻防戦の件を読んでから登って行きたい城跡である。 金剛山登山口から四の丸跡までは約300mだが、540段余りもの急な石段の連続で、20分ほどで四の丸跡に至る。四の丸跡に立つと急に視界が開け、売店もある。四の丸跡西側には竪堀の遺構も残っている。四の丸跡からは千早神社の境内で、本丸跡までは奥行き約340m、その比高は約30m。緩やかな参道を行くと社務所の建つ三の丸跡。三の丸跡には千早城址の石碑が建っている。 千早神社はもともと千早城の 鎮守として八幡大菩薩を祀っていたが、明治になって楠木正成、正行を祀るようになった。二の丸跡には拝殿と本殿が建ち、本殿の背後が本丸跡となっているが、見上げれば土塁とおぼしきものも垣間見える。本丸跡から5分ほど金剛山への登山道を登って行くと、楠木正成の三男正儀の墓と書かれた五輪塔があるが、地元では首塚さんと呼ばれ、正成の供養塔と考えられている。 楠木正成が知略、機略の限りを尽くして鎌倉幕府軍を翻弄した様子を想像しながら千早城跡を訪れれば、南北朝時代の歴史がよみがえるような気がする。 |
| 周辺案内 | ロープウェイで楠木正成が一時身を潜めた金剛山に登った後、河内長野市にある観心寺と天野山金剛寺に参拝したい。 観心寺は楠木正成の幼少の頃の学問所であり、南朝ゆかりの寺である。国宝の金堂を中心に楠公建掛塔や講堂、霊宝館などの堂宇が建ち並んでいる。建掛塔は楠木正成が建立しようとして中途で終わったもので重要文化財に指定されている。また、楠木正成の首塚や後醍醐天皇の後を継いだ後村上天皇陵がある。金堂内に安置されている秘仏如意輪観音坐像は毎年4月17日と18日にだけ拝めることができる。 天野山金剛寺は聖武天皇の勅願で行基が創建したと伝えられる古刹。後白河法皇の妹八条女院が弘法大師の御影を安置して霊場としたため女人高野とも呼ばれている。北朝の三上皇の行在所が置かれ、また南朝の後村上天皇の皇居ともなるなど、南北朝時代を偲ばせる寺でもある。寺宝も多く、紅葉の名所で、室町時代の庭園も見ごたえがある。 |