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尼 崎 城

海陸の要衝の地に戸田氏鉄が西の守りとして築いた城

 所在地:兵庫県尼崎市北城内
 別  称:大物城
 築城年:永正16年(1519)、元和4年(1618)
 築城者:細川高国、戸田氏鉄
 形  式:平城
 遺  構:なし。模擬石垣・城壁

 地図 
模擬石垣と城壁
歴 史  尼崎城は古くは大物(だいもつ)城と呼ばれ、室町時代末期の永正16年(1519)に細川高国が柵や土塁、石垣で構築した砦を築いたのが始まり。高国は細川家の内紛で細川晴元に敗れて自害。これが世に言う「大物崩れ」である。
 その後、摂津伊丹城主荒木村重の支城となったが、天正6年(1578)荒木村重は西三の丸跡に建つ桜井神社織田信長に突如反逆して敗退。尼崎城に逃れた後、毛利氏を頼って備後に落ち延びた。信長は激怒し、荒木村重の一族郎党600余名を尼崎の海岸で虐殺、尼崎の地を焼き払った。
 豊臣秀吉の時代となると、建部高光が摂津の要衝の地である尼崎の郡代となり、5百石を与えられた。高光の孫の建部政長は元和元年(1615)の大阪の陣で徳川家康に味方したため、大坂城落城後は1万石の尼崎藩主として尼崎城の築城奉行となった。
 しかし、元和2年(1616)建部政長は年少を理由に播磨林田に移封。代わって翌元和3年(1617)近江膳所城より戸田氏鉄(うじかね)が5万石で入封。徳川幕府の命により、元和4年(1618)から数年がかりで荒廃していた尼崎城を拡張、大修築し、四層の天守を持つ近世城郭を築き上げた。
 戸田氏鉄は在城すること18年で美濃大垣城に移り、その後、青山氏4代を経て、正徳元年(1711)遠江掛川から松平(桜井)忠喬(ただたか)が4万石で尼崎城主となり、以後、松平氏7代で明治維新を迎える。
一口話  尼崎の大物浦といえば源頼朝に追われる身となった源義経が西国に向けて船出をしたところとして有名。大物浦一帯は平安時代末期に開拓され、木材の集積港として賑わっていた。
 現在の尼崎は阪神工業地帯となり、かつての大物浦の面影はないが、阪神電鉄に「大物」という駅があるのは、歴史ファンとしては嬉しい限りである。
見どころ  模擬石垣徳川幕府が元和元年に一国一城令を発布したにもかかわらず、戸田氏鉄に尼崎城の拡張と大改築を許したのは、この地が西の守りとして重要地点であったからである。
 尼崎城は四層の天守を持つ本丸を中心に、二の丸・松の丸・西三の丸・東三の丸をらせん状に配置した近世城郭で、尼崎城に立ち寄った二代将軍徳川秀忠もその縄張りの見事さに感心し、金銀や馬などを与えてこれを称したという。
 その尼崎城も現在では本丸跡は明城小学校、九曜紋の鬼瓦成良中学校となり、城郭の遺構はまったく残っていない。ただ、尼崎城の外堀だった庄下川を渡ったところに城址公園があり、ここに近代的な石垣と塀が一部分復元されている。在りし日の尼崎城の姿はこれを見て想像をたくましくするほかはない。
 西三の丸跡には桜井松平家を祀る桜井神社が建ち、本殿前には天守に使われていたという戸田氏の紋所である九曜紋の鬼瓦が2つ飾られている。また、城内小学校内には本丸太鼓橋の橋脚を用いた石碑と、天守のミニチュア模型がある。
周辺案内  本興寺三光堂(重要文化財)寺院がひしめきあう寺町は周囲の喧騒とも隔離されて城下町尼崎の面影を今に残しているので、散策したい。
 中でも本興寺の開山堂・三光堂・大方丈は桃山時代の優れた建造物として国の重要文化財に指定されている。大方丈は初期狩野派の障壁画と庭園が見事。また、三光堂は大物浦から移築された神社で、本興寺は神仏混交の姿を今にとどめている。
 また、長遠寺の本堂と多宝塔も桃山時代の特徴を良くとどめ、同じく国の重要文化財。両寺とも阪神大震災で大きな被害を受けたため、3年がかりで修復工事が行われた。
 国指定史跡の近松門左衛門の墓にも詣でたい。尼崎市内の広済寺にあり、墓石の表面には近松門左衛門と妻の戒名、裏面には近松の没年が刻まれている。

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