明 石 城
4基の櫓を配して西国に備えた姫路城後詰の城
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| 坤櫓(重要文化財) |
| 歴 史 | 明石の地には古くから三木城主別所氏の支城として砦が築かれていたといわれる。天正13年(1585)キリシタン大名として有名な高山右近が摂津高槻から明石の地に封ぜられると、明石川の河口に船上城を築城した。 時代は下って徳川家康の時代となると、元和2年(1616)家康の外孫にあたる小笠原忠真(ただざね)が前年の大坂の陣の軍功により10万石を与えられて、信州松本から船上城に入城した。 忠真は船上城が海辺に近く中世的な城であったため、新たに現在の地に城を築いた。 これが今に残る明石城である。築城に際しては、伏見城や廃城となった三木城、船上城の資材を活用したという。忠真は明石城の築城に平行して城下町も整備し、続いて明石の浜に防波堤を築き、数年がかりで湊を完成させた。小笠原氏が寛永9年(1632)豊前小倉に移封された後、戸田光重7万石、大久保忠職(ただもと)7万石、松平忠国、信之父子7万石、本多政利6万石と城主は交替した。 天和2年(1682)徳川家康の曾孫にあたる松平直明が越前大野から6万石で明石城主となり、以後松平氏10代で明治維新を迎えるが、この松平氏を明石では、先の松平忠国、信之に対して、後の松平氏と呼んでいる。 後の松平氏八代藩主斉宜は十一代将軍徳川家斉の26男であったため、6万石から8万石に加増されて格式も10万石格となった。 |
| 一口話 | 小笠原忠真による明石城の築城は二代将軍徳川秀忠の特命といわれている。徳川幕府から普請奉行が派遣され、資金も援助された。縄張りは忠真の養父である姫路城主本多忠政が担当した。 太平の世に向かいつつあるとはいえ、明石城を徳川幕府が重視したのは、西国の外様大名に備える姫路城の後詰の城だったことによる。また、明石は大坂湾の出入口に位置し、瀬戸内海地方の安定を図るためでもあった。 |
| 見どころ | 明石城跡はJR明石駅のホームから眺めると、高石垣の上に建つ均整のとれた2つの三層櫓の姿が美しい。明石城は丘陵上に本丸・二の丸・東の丸、西側の一段下に稲荷郭、南麓に三の丸を配していた。本丸には約152坪の天守台があるが、天守は築かれず、その代わりに本丸の四隅には4基の三層櫓が築かれていた。そのうち今に残るのは坤(ひつじさる)櫓と巽櫓で、ともに国の重要文化財に指定されている。 坤櫓は本丸の南西隅にあり、本丸四隅に建てられていた三層櫓の中でも一番大きなもので、伏見城から移築されたものといわれ、天守の代用となっていた。坤櫓のすぐ側に天守台が残っている。また、巽櫓は本丸の南東隅に あり、船上城の遺構である。この2つの櫓の間には展望台が設けられ、明石海峡大橋が遠望できる。本丸跡・二の丸跡・東の丸跡の高石垣は穴太積みで、その反り返る姿から扇の勾配とも呼ばれ、2つの櫓と良く調和して美しい。城跡内には薬研堀や桜堀、往時を偲ばせる石垣などが良く保存されているのでゆっくりと散策してみたい。 明石城跡も阪神大震災で大きな被害を受けたが、修復工事の末に装いも新たに蘇った。現在、明石城跡は明石公園として整備され、園内には運動公園や図書館などがあり、市民の憩いの場所となっている。 |
| 周辺案内 | 明石海峡大橋の開通で全国に知られるようになった明石は、東経135度の子午線が通る日本標準時間の町である。その明石のシンボル的存在が明石市立天文科学館である。天文科学館は阪神大震災後リニューアルオープンし、マルチメディアを駆使した科学館となった。館内には昭和35年の開館以来の旧東ドイツ製プラネタリウムが現在もなお活躍している。 明石公園の東の丸入口のすぐ側には明石市立文化博物館がある。常設展示室では明石の歴史や産業などを8つのテーマに分けて展示し、アカシゾウの復元模型や源氏物語の紹介ビデオもある。 魚のまち明石を代表する「魚の棚」商店街は是非訪れたい所。魚屋を中心に練り製品や塩干物を扱う店が約100店集まっていて、大勢の買い物客で賑わっている。江戸時代に造られた魚町がそのルーツで、棚板の上に魚を並べて売る様子から魚の棚と名付けられた。 |
| 明石城フォトライブラリー | ||
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| 天守台 | 堀 | 薬研堀 |
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| 三の丸跡と明石城 | JR明石駅から眺める明石城 | 高石垣 |
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| 巽櫓(重要文化財) | 坤櫓(重要文化財) | 桜堀 |