土 浦 城
五重の堀をめぐらせていた土屋氏11代の居城
![]() |
地図 ![]() |
|
| 櫓門 |
| 歴 史 | 土浦城は平安時代末期の天慶年間(938〜946)に関東で乱を起こした平将門が砦を築いたのが起源と伝えられているが、史実の程は定かではない。 史実としては、室町時代中期の永享年間(1429〜40)、鎌倉時代以来の常陸守護職として勢威を振るってきた小田氏の家臣で、関東八将として名をはせた今泉三郎が築城。今泉三郎の孫今泉五郎左衛門は永正3年(1506)、謀略による領民の反乱によって討死し、同じく小田氏の武将であった菅谷勝貞が土浦城主 となった。菅谷氏は主君の小田氏を助けて、坂東一の名族と称された佐竹氏と度々戦火を交えたが、天正18年(1590)豊臣秀吉による小田原征伐の際、北条氏と結んだため、佐竹氏や徳川家康の軍勢に攻められ、時の土浦城主菅谷範政は城を明け渡した。 秀吉によって徳川家康が関東に移されると、土浦城には家康の次男結城秀康が入城したが、慶長5年(1600)関ヶ原の合戦で勝利した家康は、北陸の押さえとして結城秀康を越前69万石の太守に任じた。 代わって下総布川から松平(松井)信一が3万5千石で入封するが、元和3年(1617)信一の養子松平信吉が上野高崎に移封され、その後、西尾氏、朽木氏と城主は替わり、寛文9年(1669)老中土屋数直が4万5千石で入封。 土屋数直の子政直は天和2年(1682)駿河田中城に移ったが、貞享4年(1687)再び土浦城主に返り咲き、土浦城は土屋氏11代で明治維新を迎える。 |
| 一口話 | 土屋氏は初代数直と二代政直が徳川幕府の老中を務めたほか、歴代藩主が幕府の要職につくが、土屋家は三河以来の譜代ではなく、武田信玄・勝頼二代に仕えた土屋昌恒を祖とする。 徳川家康は武田の赤備えを徳川四天王の一人井伊直政に与えるなど、武田びいきで知られ、天目山で武田勝頼と最期をともにした土屋昌恒の遺児・土屋忠直を家臣として召し抱えた。土浦城の土屋氏初代数直は三代将軍徳川家光の小姓から4万5千石の大名に出世、後に土屋氏は9万5千石まで加増され、譜代大名各として大過なく明治維新を迎える。 |
| 見どころ | 土浦城は桜川や霞ヶ浦の水を引き入れた五重の堀をめぐらし、その姿が水に浮かぶ亀の姿に似ていたことから、別称「亀城」とも呼ばれていた。 現在はその堀もほとんどが埋められて市街地と化しているが、本丸跡と二の丸跡の一部が亀城公園として整備されている。公園のシンボルともいうべき櫓門は明暦2年(1656)朽木稙綱(たねつな)が改築したもの。入母屋造り、本瓦葺で、江戸時代前期の櫓門としては、関東地方唯一の貴重なものといえる。かつては二階の屋根裏に時刻を告げる大太鼓が置かれていたことから太鼓櫓とも呼ばれている。本丸跡には平成3年に西櫓、平成10年に東櫓が復元された。本丸には霞門が残り、二の丸跡には前川御門(高麗門)が移築され、茨城県の城の中で建物の遺構がこれだけ残っているのは土浦城だけだろう。 公園の周囲には土塁と堀が残り、往年の土浦城の姿を偲ばせる。園内には江戸後期の地理学者山村才助の碑や土浦の生んだ文学者高田保の句碑なども建っている。 |
| 周辺案内 | 亀城公園近くの土浦歴史博物館は石器時代から現代に至るまでの考古・歴史・民俗資料を展示。中でも土浦城の模型が興味をひく。 考古資料館は上高津貝塚の発掘調査に基づいて、縄文時代の生活や文化を模型や映像などでわかりやすく紹介している。 土浦といえば琵琶湖に次ぐ大きさを誇る霞ヶ浦が有名。土浦港プロムナードがあり、夕日の美しさで知られる。野鳥の宝庫でもあり、飛来してくる鳥は150種類にものぼるという。夏には観光用帆曳船が運航される。 |