
館 山 城
「南総里見八犬伝」で有名な里見氏の居城
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| 模擬天守 |
| 歴 史 | 館山城主里見氏は清和源氏の流れをくむ名族で、戦国時代、里見氏六代義尭(よしたか)の代には安房・上総・下総の三国57万石を所領とするほどの全盛期を迎えた。 しかし、天文7年(1538)里見義尭は小田原の北条氏康と国府台(現在の市川市)で戦って敗れ、里見氏七代義弘も永禄7年(1564)北条氏康・氏政父子と再び国府台で戦って敗れた。 里見氏八代義頼の本拠地は岡本城(千葉県安房郡富浦町)であったが、北条軍に攻められ、支城の久留里城・佐貫城なども危うくなったため、里見氏九代義康は天正16年(1588)新たに館山城の築城工事に着工。天正18年(1590)完成すると同時に館山城に本拠を移した。皮肉なことに、同年里見氏の宿敵である小田原の北条氏は豊臣秀吉によって滅亡、里見義康は小田原への参陣が遅かったことを責められ、秀吉によってその領地は安房一国9万2千石に減封された。 里見義康は慶長5年(1600)の関ヶ原の合戦で東軍の徳川秀忠に味方したため3万石を加増。里見氏十代忠義も当初は徳川幕府に重んじられたが、慶長19年(1614)妻の祖父である小田原城主大久保忠隣(ただちか)の改易に巻き込まれ、徳川幕府の外様大名取り潰し政策の犠牲となって安房一国を没収され、館山城は20日がかりで破却された。 里見忠義は伯耆国倉吉に流されたが、元和8年(1622)29歳の若さで病没、里見氏十代170年の歴史は幕を閉じた。 なお、江戸時代の後期には旗本の稲葉氏が1万石を与えられて館山城の跡地に陣屋を構え、稲葉氏5代で明治維新を迎えることになる。 |
| 一口話 | 里見氏十代忠義が倉吉で病死すると、倉吉の大岳院にある主君の墓前で8人の家臣が殉死した。現在、その遺骨は館山に迎えられ、館山城跡の南面に眠っている。 房総の名族里見氏最後の無念を伝える8人の義士の話に想を得て、滝沢馬琴は名作『南総里見八犬伝』を書き上げた。『南総里見八犬伝』は波乱万丈の物語で、現在でもよく読まれ、映画や芝居も実に面白く市川猿之助のスーパー歌舞伎にもなった。 |
| 見どころ | 館山城は標高72mの城山(根古屋山)の岩壁を切り削って築かれた要害堅固な城で、山麓には堀をめぐらしていた。 現在、館山城跡は城山公園として整備され、山頂広場には昭和57年に三層四階の模擬天守が建てられた。天守内部は館山市立博物館の分館と なり、館内には江戸時代の文豪滝沢馬琴が半生をかけて書き上げた『南総里見八犬伝』に関する多くの資料を展示しているが、中でもNHKの人形劇で使われた八犬士の人形が興味をひく。天守最上階からは館山市街や館山湾が一望できる。博物館の本館は城山公園の中腹にあり、戦国武将里見氏の歴史や館山の民俗資料などを展示している。 城山公園内には椿・梅・桜・ツツジなどの木々が植えられ、頂上付近には万葉集に詠まれた植物を集めた万葉の小径や日本庭園、茶室などもあり、格好の散策地となっている。 館山城は完全に破壊されただけに、里見氏時代を偲ぶものとしてはわずかに残る土塁と堀だけで、城山全体から在りし日の姿を想像するしかない。 |
| 周辺案内 | 鋸の歯の山容をした鋸山へロープウェイで登ると十州展望台があり、東京湾や南房総の山々を一望できる。鋸山山頂から中腹にかけては日本寺の境内で、一周するとスリルも味わえ、思い出深いものになるだろう。 シンガポールの国立植物園の姉妹園「南房パラダイス」は館山では必見の名所。10数棟の温室には世界の花々が咲き乱れ、鳥の館や蝶の館もあって、まさにパラダイスそのもの。早春に訪れると、一面の菜の花畑は美しいかぎり。 館山を後にして白浜から千倉にかけてのフラワーラインをドライブすれば、海側にも山側にもお花畑が点在し見るものの目を奪う。特に早春の頃が素晴らしい。 |