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館 林 城

狐が尾を曳いて縄張りしたという難攻不落の城

 所在地:群馬県館林市城町
 別  称:尾曳城
 築城年:天文元年(1532)
 築城者:赤井照光
 形  式:平城
 遺  構:堀、土塁、復元城門・城壁

 地図 
歴 史  館林城は戦国時代初期の天文元年(1532)上州の豪族であった赤井照光が築城したが、狐が尾を曳いて縄張りを教えたという伝説があり、このために尾曳城とも呼ばれている。
 永禄5年(1562)上杉謙信が関東に進出した際、赤井照光の子赤井照景が従属しなかったため、謙信は照景を館林城から追い出し、一族の長尾景長を城主とした。その後を継いだ長尾顕長の時の天正13年(1585)小田原の北条氏が館林城を攻撃したが、神変変異が起こって容易に落ちなかったため、北条氏は謀略によって館林城を奪い、一族の北条氏則を城主とした。
 天正18年(1590)豊臣秀吉の小田原北条攻めに際して、石田三成率いる2万の豊臣勢が館林城を攻撃したが、館林城は微動だにしなかった。このため、三成は城の中心に突入するため城沼に筏を投げ込んで二筋の攻撃路を造ったが、不思議なことに、夜が明けると二筋の道は沼の中に没し、跡形もなく消え失せていた。三成は神がかりな館林城をこれ以上武力で攻めることを断念し、北条氏直を通じて降伏を勧めさせ、ようやく館林城は開城となったという。これもひとえに稲荷の加護と言い伝えられている。
 北条氏滅亡の後、秀吉によって徳川家康が関八州に転封させられると、家康腹心の榊原康政が10万石で館林城主となり、榊原氏の後、松平氏・太田氏・井上氏など徳川譜代大名がめまぐるしく交代した。後に徳川五代将軍になった徳川綱吉も館林城主であった。
 最後の城主は秋元氏で、幕末の文政3年(1821)出羽山形より6万石で入封。館林城は秋元氏2代で明治維新を迎える。
一口話  館林城は築城以来、稲荷の加護が信じられ、狐保護のために犬は見つけ次第撲殺されたという。その館林城に寛文元年(1661)後に犬公方と呼ばれた徳川綱吉が入封したのは何かの因縁であろうか。
 綱吉の後、嫡子徳松が館林城主となったが夭折し、将軍綱吉は悲しみの余り館林城を徹底的に破壊させた。神罰の恐ろしさを感じたためではないだろうか。その館林城を再築したのは甲府宰相綱重の第二子松平清武であった。時に宝永4年(1707)のことである。
見どころ  館林城は狐が尾を曳きながら城の縄張りを教えたというだけあって、三方が湖沼に面した要害の地に築かれ、本丸・二の丸・三の丸のほかに稲荷郭もあり、狐が尾を曳き始めたあたりに初曳稲荷、曳き終えたあたりに尾土橋門と城壁曳稲荷が祀られていた。
 北条氏や石田三成が攻めあぐんだのも稲荷の加護の伝説は別として、それだけ堅固な城であったことを物語っている。
 その館林城跡も今では三の丸跡に文化会館、二の丸跡に市役所が建ち、往時の面影はないが、本丸跡には土塁の一部、三の丸跡には虎口や土塁、それに水堀の一部も残っており、城跡内を散策し、尾曳稲荷にも詣で、難攻不落といわれた在りし日の館林城に思いをはせたい。
 昭和58年、三の丸跡に土橋門と城壁が復元され、今では城下町館林のシンボルとなっている、
周辺案内  江戸時代の歴代館林城主によって保護されてきた「つつじが岡」は、現在では群馬県立公園となり、4月中旬から5月中旬にかけて、樹齢800年を超えるヤマツツジをはじめ1万株ものツツジが一斉に咲き誇り、園内は燃えるような見事な美しい風景となる。
 茂林寺は狸が茶釜に化けて和尚さんに恩返しをする民話『分福茶釜』の舞台となった寺。ユーモラスな表情をしたタヌキの焼き物が参拝者を出迎えてくれる。
 館林で生まれた文豪田山花袋は『蒲団』『田舎教師』などの名作を残した自然主義文学者。その記念文学館には田山花袋の自筆原稿をはじめ、日記や愛用品などが展示されている。隣接して田山花袋が8年間生活していた茅葺き屋根の旧居もあり、この付近一帯は城下町館林の面影を残している。

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