忍 城
(おしじょう)
石田三成が水攻めに失敗した忍の浮城
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| 復元御三階櫓 |
| 歴 史 | 忍(おし)の地は古くは武蔵七党の一つである児玉党の領地であったが、応仁の乱後、下克上の時代となった文明年間(1469〜86)に関東管領上杉氏の被官だった成田親泰が児玉重行を滅ぼし、忍城を築いたといわれる。 戦国時代に入って、関東管領上杉憲政が小田原北条氏に追われて越後の長尾景虎(後の上杉謙信)の下に逃れ、その名跡を景虎に譲ると、成田親泰の子長泰は上杉謙信の配下に入った。 その後、成田長泰は上杉謙信と不和になって北条氏に属し、外様衆の上席として優遇され、その子成田氏長の代には総知行高24万石にまで勢力を伸ばした。上杉謙信は幾度となく忍城を攻めるが、いかに戦上手の謙信でも、要害堅固な忍城を落とすことは出来なかった。 天正18年(1590)豊臣秀吉の小田原北条氏攻めに際して、石田三成の軍勢が忍城を取り囲むが、攻略できず、北条氏の居城小田原城が秀吉勢の軍門に降った後、ようやく忍城は城主成田氏長の決断で開城した。 徳川家康が関東に移封されると、忍城の要害さを重視、江戸城北方の防備の要の城として、代々譜代の大名を忍城主とした。文禄元年(1592)には家康の六男松平忠吉が入封、忠吉が尾張清洲に移封されると、天領時代を経て、寛永10年(1633)松平(大河内)信綱が7万石で入封。 寛永16年(1639)阿部忠秋が5万石(後に10万石)で忍城主となり、9代世襲するが、文政6年(1823)阿部正権(まさのり)が陸奥白河に移り、代わって伊勢桑名から松平(奥平)忠尭(ただたか)が10万石で忍城主となる。以後、忍城は松平(奥平)氏5代の居城として明治維新を迎えた。 |
| 一口話 | 忍城は利根川と荒川が造りだした湖沼に囲まれた水城であった。小田原の役に際して、忍城主成田氏長は小田原に参陣、忍城には2600余名が籠城したが、忍城を取り囲む石田三成の大軍は沼に足を取られて攻めあぐねた。 このため、石田三成は湖沼の地形を逆手にとって、城の周囲に堤を築き、利根川と荒川の水を引いて水攻めの作戦に出る。ところが、三成が築いた堤は大雨による氾濫で崩壊。水攻めが水に負けるという皮肉な結果となった。忍城は水に強く、この時しばらく水に浮いた姿になったので後世に「忍の浮城」の異名をはせることになる。 |
| 見どころ | 忍城は城下町とともに広大な湖沼の中の島々に形成されていた水城で、小田原城・川越城などとともに関東七名城の一つに数えられていた。平和な世の中となった元禄時代に阿部氏が大修築、本丸・二の丸・三の丸を配し、三重櫓、二重櫓、多門櫓などが築かれ、近世城郭としての姿を整えた。 この「忍の浮城」として有名な城も明治以降に 次々と埋め立てられて、今ではその面影もない。ただ、石田三成の水攻めの時に築かれた堤の一部が「石田堤」として今も残っている。現在、本丸跡には、もともと三の丸に築かれていた御三階櫓が昭和62年に復元、他に城門、城壁、鐘楼(鐘は郷土博物館に保存)などが復元されている。御三階櫓は往時の資料を基に建築されたもので、屋根の鯱(しゃちほこ)は1.8mで櫓としては日本最大級のもの。櫓内は行田の今昔を写真や資料で紹介する展示室になっており、最上階からの展望室からは行田市内が一望できる。 御三階櫓に隣接して行田市郷土博物館が建ち、この博物館の西側には高麗門が移築されている。 忍城跡の外堀であった付近一帯は四季の花が咲き誇る水城公園として市民の憩いの場所。公園近くの行田市役所の南側には木陰と水の流れが美しい「浮城の径」が平成6年に完成。上杉謙信や石田三成が攻めあぐねた「忍の浮城」の姿は水城公園や「浮城の径」を散策しながら想像をたくましくする他はない。 |
| 周辺案内 | 忍城跡を訪ねた後には何をおいても国指定史跡である「さきたま古墳公園」を見学したい。5世紀末から7世紀初めにかけて築かれた9基の大型古墳が集中する東日本では最大の古墳群。中でも稲荷山古墳は古代史の謎を解く鉄剣が出土したことで全国的に有名になった6世紀初頭の前方後円墳。 将軍山古墳は6世紀後半の前方後円墳で、横穴式石室内の様子が将軍山古墳展示館として公開されている。また、丸墓山古墳は6世紀前半の日本最大級の円墳。頂上からは行田市街を一望でき、天正18年(1590)に石田三成が忍城を水攻めにした際、この古墳を本陣とした。 公園の一角にある埼玉県立さきたま資料館には稲荷山古墳から出土した国宝の「金錯銘鉄剣」をはじめ、埼玉古墳群から出土した貴重な遺物や、北武蔵の民俗資料などが展示されている。 |